イエスは、預言者たちが宣べ伝えていた神の王国が実現しようとしていることを告げ、その王国を受け入れるために神に立ち返るようにとイスラエルの民に命じられた。
イエスは、誕生の前にダビデの子/メシアであると告げられ、またそう期待されていただけではない。彼自身が、自らが王国をもたらすイスラエルのメシアであると自覚していた。そして、自らにおいてイスラエルの希望が実現することを、自ら民に宣べ伝えたのである。
今回は、イエスがナザレの会堂で語られたメッセージ(ルカ4:18–19)から、イエスがイザヤ書61章の預言と深く関わっておられることを見て行こう。
ナザレでのメッセージ
ルカはマタイおよびマルコとは異なり、イエスがガリラヤで語られた最初のメッセージとして、主の故郷ナザレの会堂でのメッセージを置いている*1。イエスはそこで「預言者イザヤの書」を開き、次のように朗読された。
主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、主の恵みの年を告げるために。(ルカ4:18–19)*2
そして、イエスは人々に「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました」と宣言されたのであった。
このように、ルカにおけるイエスの最初のメッセージは、旧約聖書の言葉が自らにおいて成就したという宣言となっている。このメッセージを理解するためには、まずはイエスが引用されたイザヤ書61:1–2を見ていく必要があるだろう。
イザヤ書61章について
イザヤ書61章は、大きく58–66章という「イザヤ書の最後のユニット」に属している。このユニットのテーマは「終末において起こる神による解放」であり、神がメシアを用いてこの解放を実現されることが強調されている*3。
61:1–2は次のようになっている。
【神】である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、【主】の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。
前の60章が神ご自身による語りかけであったのに対して、61章では、8–9節を除く大部分が「わたし」による「独白」となっている*4。この「わたし」は、主によって油注がれ、遣わされた者である。また、この人物の上には「【神】である主の霊」が留まっていると言われている。彼──「油注がれた者」が遣わされた目的は、61:1–2に書かれているとおり、民に「良い知らせ」、「解放」、「【主】の恵みの年」、「われらの神の復讐の日」を告げることである。そうして彼は民に「慰め」を与え(61:2)、喜びと賛美を回復させる(61:3)。
61:3の最後部から61:7にかけては、「油注がれた者」の働きが、イスラエルの回復/復興をもたらすことが語られている。彼を通してこの回復を実現されるのは【主】ご自身である(61:8)。その宣言の中では、イスラエルの回復が「永遠の契約」によるものであると言われている。この契約は、59:21の「わたしの契約」、すなわち新しい契約のことであると考えられる*5。そして、新しい契約がもたらすイスラエルの回復の結果、諸国民はイスラエルこそが「【主】に祝福された子孫であることを認める」ようになる(61:9)。
以上のことから、「油注がれた者」には(1)イスラエルに新しい契約に基づく回復と慰めのメッセージを告げ、(2)その回復と慰めを実現させ、(3)結果として諸国民を神に立ち返らせるという役割が与えられていることがわかる。
「この人物の役割と責務は、42、49、50、53章のしもべの役割と似ている。」*6「油注がれた者」も、【主】の「しもべ」も、ともに新しい契約をもたらす者であり、ともにイスラエルと諸国民の救いに関する役割を担っているからである*7。そして、「油注がれた者」には神の霊が授けられているという特徴も、11:2ではダビデの子なる王に、また42:1では「しもべ」に適用されている。したがって、「油注がれた者」は【主】のしもべと同一人物であり、またダビデの子なる王とも同一人物であると考えられる*8。この解釈が正しければ、61章は49章のように、メシア自身による独白であるということになる。
イエスのイザヤ書引用とメシア宣言
イエスがこの預言を朗読し、その内容が「実現」したと宣言されたということは、イエス自らがイザヤ書61:1の「わたし」である、すなわち自らがメシアであると宣言したということにほかならない*9。会堂の聴衆もまた、このメシア宣言を「明確に理解した」と思われる*10。なぜなら、死海文書などの第二神殿期のユダヤ教文書においても、イザヤ書61章はメシア預言として理解されていたからである*11。
しかし、イエスがこの宣言をされた時点で、新しい契約は締結されておらず、イスラエルの回復はもたらされていない。回復とともにもたらされるはずのメシアの王国も、未だ実現はしておらず、「近づいた」という段階である。それでは、イザヤ書61章の預言は、どのような意味で「実現」したといえるのだろうか。
まず、このイエスのメッセージは、主の霊が注がれ、主によって油注がれた者(メシア)としての働きが始まったという宣言であった*12。ルカは直前の4:14で「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた」と記している。この流れからしても、イエスがメシアとして聖霊の力による奉仕を始めたことが、4:21におけるイザヤ書61:1–2の「実現」の宣言と関係していることは明らかである。マルコ1:15の「時が満ち」という宣言に表されていたように、イザヤが告げていたダビデの子=しもべ=油注がれた者であるメシアの到来が、遂に「実現」したのである。
また、イエスがイザヤ書61:2の第1文(主の恵みの年を告げるために)で引用を止めておられることは、注目に値する*13。当時、安息日の会堂における礼拝では、このような短さで朗読を終えることは異例であった。後のミシュナによれば、これは違反ですらある*14。引用が「主の恵みの年を告げるために」で終わり、続く「われらの神の復讐の日を告げ」以降が省略されていることは、ルカ自身の神学的意図によるものである可能性もある*15。しかし、「朗読しようとして立たれた」(4:16)イエスが、イザヤ書61:1–2aに「目を留められ」(4:17)、そして「巻物を巻き、……座られた」(4:20)と書かれていることからすると、イエスは実際に61:2aで朗読を止められたのだろう。「会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた」(4:20)のも、もしかするとこの異例の朗読によるものだったのかもしれない*16。
イザヤ書61章の全体的な文脈から、「【主】の恵みの年」と「われらの神の復讐の日」は、ともにイスラエルの回復がもたらされる期間であると推測される。この回復が新しい契約とも結びつけられているところからすると、特に「われらの神の復讐の日」は、預言書における終末的な【主】の日を指していると考えて差し支えないだろう(イザ34:8参照)。しかし、【主】の日という「究極的な神の復讐の時は、……まだもたらされていない(9:51–56; 17:22–37; 21:5–37)」*17。後にイエスは来たる裁きを示唆することになるが(4:24–27)、この時点で「イエスの奉仕はまず希望を告げることにある」*18。したがって、イエスは、まず朗読した部分までの成就が到来したことを宣言されたのであろう*19。
確かに、イエスの公生涯において「貧しい人」に福音が告げられ、罪に捕らわれた人に「解放」が与えられ、目の見えない人の目は開かれた*20。イザヤが告げていたメシアの奉仕は、イエスの到来と、その際に行われた癒しの奇跡(ルカ5:17)や罪の赦しの宣言(ルカ5:20–24)によって成就し始めたのである。イエスがバプテスマのヨハネの弟子たちに対して、次のように言われたとおりである。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。」(ルカ7:22)
メシアの奇跡と新しい契約の祝福
福音書は、イエスの奇跡が、約束されていた王国の近づいたことを証明するものでもあったと強調している。ルカ7:22(およびマタイ11:4–5)の表現は、4:18–19におけるイザヤ書61:1–2の成就を確証するだけではなく、イザヤ書35:5–6を想起させるものともなっている*21。
そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。(イザ35:5–6)
イザヤ書35章は、【主】の日の裁きの後でもたらされる王国の希望を伝えている。ルカやマタイは、この箇所と新しい契約のテキストであるイザヤ書61章のイメージを、イエスという方にあって結びつけているのである。
ナザレの会堂におけるイエスの宣言で示唆されていたように、【主】の日に起こる世界大の裁きは、未だもたらされていない。その日において(またはその日の後で)実現するダビデの子を通した神の王国も、未だ確立されていない。しかし、イエスは奇跡という形で、王国における祝福の前触れを示された。彼は病を癒し、悪霊を追い出すだけではなく、大荒れの湖を治めることで、自然に対する権威も示されたのである(マタ8:23–27; マコ4:35–41; ルカ8:22–25)。さらに、王国が確立する際には、神が「永久に死を呑み込まれる」ことも約束されていた(イザ25:8)。この希望の片鱗もまた、イエスがヤイロの娘を生き返らせたことによって示された(マタ9:23–25; マコ5:38–43; ルカ8:51–56; cf. ヨハ11:17–44)。
以上の奇跡は、王国が実際に到来したことを告げるものではない。預言書群は、すべての民が王国の祝福に与ることを示唆している。しかし、イエスの奇跡は──彼が物理的距離にかかわらず奇跡を行うことが可能であったものの──限定的であった。また、イエスが「癒された人々は死んだ。ヤイロの娘(マルコ5:21–43)やラザロのような、死者の中から生き返った者たちも、遂には死んだ」*22。したがって、「イエスの奇跡は来たるべき王国の前味であり、予告であった。しかしこういったことは、その時点でメシア的王国が実際に開始したことを意味しているのではないのである」*23。
確かに、「イエスの奇跡は王国の力の発揮であったが、まだ王国そのものではなかった」*24。しかし、その奇跡によって、「神の国が近づいた」というイエスのメッセージが証明された。「奇跡は、来るべきメシア的王国の片鱗をイスラエルに見せるものでもあったのである。」*25 言い換えれば、イエスの奇跡は、イスラエルの民に「来るべき世の力を味わ」わせてくれるものだった(ヘブ6:5参照)。奇跡もまた、イエスがイスラエル、諸国民、そして被造世界の回復をもたらす「新しい契約の仲介者」(ヘブ9:15; 12:24)であり、約束されていたメシアであることを証明するものだったのである。
*1:実際の時系列的順序は不明である。Fruchtenbaumはルカ序文(1:3)の「順序立てて」という言葉(kathexēs)、また「ギリシャ人にとって、正確な年譜こそが、ある主張を立証するものであった」ことなどを根拠として、ルカがイエスの生涯(および続く初代教会の動向)を時系列的正確さをもって記したと主張している(Yeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective, 4 vols. [San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2016, 2017], 1:193–94)。
しかし、「順序立てて書く」は必ずしも完ぺきな時系列的正確さを保証するものではない。David E. Garlandによれば、これは「読者がはっきりと理解できるような、一貫性と連続性のある資料の配置」を表現するものである(Luke, ZECNT [Grand Rapids: Zondervan, 2011], 55)。Cf. Bock, Luke 1:1–9:50, 62–63; Richard N. Longenecker, “Acts,” in The Expositor’s Bible Commentary, rev. ed., 10:671–73.
*2:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。
*3:Rydelnik and Spencer, “Isaiah,” 1096.
*4:鍋谷『イザヤ書注解』下、264頁。新改訳2017は61:1の話者を「わたし」、61:10の話者を「私」と訳しており、前者が神的存在、後者が人間であると区別しているようである。しかし、多くの注解者は61:1, 10の話者が同じ人物であるとしている。たとえば前掲書、266頁; Smith, Isaiah 40–66, 642; Rydelnik and Spencer, “Isaiah,” 1097.
*5:Smith, Isaiah 40–66, 629.
*6:Ibid., 631.
*7:Ibid., 632. 鍋谷は61章を「『第五のしもべの歌』と考えられないこともない」と述べている(『イザヤ書注解』下、264頁)。
*8:イザヤ書61章のメシア的解釈については、以下も参照のこと。Edward E. Hindson, “Isaiah 61:1–6: The Spirit-Anointed Messiah and His Promise of Restoration,” in The Moody Handbook of Messianic Prophecy, 983–96.
*9:Kevin D. Zuber, “Luke,” in The Moody Bible Commentary, 1561.
*10:Fruchtenbaum, Yeshua, 2:136.
*11:David W. Pao and Eckhard J. Schnabel, “Luke,” in Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, 288; Hindson, “Isaiah 61:1–6,” 988–89.
*12:Bock, “Israel in Luke–Acts,” in The People, the Land, and the Future of Israel, 108.
*13:他にも、ルカ4:18–19のイザヤ書引用には、(1)イザ61:1「心の傷ついた者を癒やすため」の省略、(2)「囚人には釈放を告げ」が七十人訳と同じく「目の見えない人には目の開かれることを告げ」とされていること、(3)イザ58:6から「虐げられている人を自由の身とし」が追加されていることなど、議論の対象となる要素がいくつか含まれている。Cf. Bock, Luke 1:1–9:50, 404–11; Pao and Schnabel, “Luke,” 287–90; Hindson, “Isaiah 61:1–6,” 983–96.
*14:Fruchtenbaum, Yeshua, 2:134–36.
*15:Pao and Schnabel, “Luke,” 289.
*16:Fruchtenbaum, Yeshua, 2:135.
*17:Bock, Luke 1:1–9:50, 411.
*18:Ibid.
*19:Cf. Fruchtenbaum, Yesua, 2:134.
*20:Pao and Schnabelは、イザ61:1ffで使われていた表現は抑圧されたイスラエルを示す象徴であるかもしれないものの、「ルカ7:22と照らし合わせると、字義的な読み方も排除することはできない」と指摘している(“Luke,” 289)。
*21:Vlach, He Will Reign Forever, 292–93.
*22:Ibid., 295.
*23:Ibid.
*24:Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism, 100.
*25:Vlach, He Will Reign Forever, 292.