ナザレのイエスの誕生は、諸契約が指し示していたメシアの到来そのものであり、聖書の物語が最終段階へ進むための決定的な出来事だった。
しかし、福音書の著者たちは、イエスの誕生そのものや幼年期の記録よりも、イエスご自身の教えと行動に注目している。よって、私たちもまた、メシアであるイエスご自身の教え──特に公生涯の初期に語られたと思われる教え──から、イエスの到来がいかに決定的なものであったかを見て行くことにしたい。
ヨハネとイエスのメッセージ
マタイは、メシアの先駆者であったバプテスマのヨハネのメッセージを、次のように伝えている。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」*1(マタ3:2)興味深いことに、イエスがガリラヤでの宣教を開始された際に告げたメッセージも、全く同じである。「この時からイエスは宣教を開始し、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』と言われた。」(マタ4:17)マルコが伝えているイエスの最初のメッセージも「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15)というものである。
マタイとマルコでは、メッセージの言葉遣いや内容に若干の違いはあるが、基本的には両者ともに、イエスが(1)「天の御国」または「神の国」が「近づいた」ことを宣言し、(2)「悔い改め」を命じられたことを伝えている。
天の御国/神の国について
「御国」および「国」について
バプテスマのヨハネがメシアの先駆者として伝え、またメシア自身であるイエスが告げられたメッセージは、「天の御国」または「神の国」に注目したものである。ここで「御国」や「国」と訳されているギリシャ語バシレイア(basileia)は、王による支配を意味する言葉である*2。よって、「天の王国」(kingdom of heaven)または「神の王国」(kingdom of God)と訳す方がふさわしいだろう。
「王国」という訳語は「支配されているはっきりとした地理的地域を指すもの」である。これに対して、バシレイアという「ギリシア語の方は第一に支配の行為そのものを指す」のであり、「王の支配(kingship)と訳す方が適切である」という主張も頷ける*3。しかしながら、バシレイアが王の支配を指しているとしても、支配される領域などの要素を排除する必要はない。王が支配を行使するとなれば、そこには支配される何らかの領域や国民があるはずである*4。「もし神が支配されるなら、どこかを支配されるのだ。そのどこかは、どこでもということもあるだろう。支配領域なしの抽象的な支配というものはない。」*5 よって、「支配領域なしの王国というのは、支持し難い概念である」*6。聖書において神の王国を表すためには、主に支配そのものを指す言葉が用いられているが、その支配には支配領域および国民が含まれていると考えて良いだろう*7。
福音書で使われている「天の御国」または「神の国」という具体的な表現は、旧約聖書には登場しない。しかし、神が主権者として統治される王国という概念は、頻繁に登場する。むしろ、神が被造世界を支配しておられる王のような方だというのは、創世記1–2章の創造の記事の時点で見られる概念である。旧約聖書の中心にある神学的テーマは、「神は王である」という意味での「神の支配」あるとしても過言ではない*8。
「御国」とメシアの王国
これまで見てきたように、神による被造世界の理想的統治の確立という希望は、メシアの地上的王国という非常に具体的な希望へと発展していった。ダビデの子孫であり神ご自身でもある王が、イスラエルから始まって全世界を統べ治める。その王国を通して、堕落の影響を受けた被造世界に回復がもたらされ、王は神による理想的統治を地上で成し遂げるのである。
前回確認したように、バプテスマのヨハネの父ザカリヤも、イエスの母マリアも、この旧約的なメシアの王国の到来と、回復の成就を期待していた。そして、バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣言した時、彼はこうした王国理解を修正していないし、それまでとは異なる王国の定義も示していない。よって、ヨハネが言っている「天の御国」とは、それまで預言者たちが伝えてきたメシアの地上的王国を指しているものと考えられる。
同様なことは、イエスの「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」というメッセージにも言うことができる。イエスは、近づいたという「御国」が何であるかに関して、ヨハネの理解や、旧約からの伝統的理解を修正しようとはしておられない*9。よって、少なくともこの時点では、イエスが宣べ伝えた「天の御国」は、預言されていたメシアの王国のことだったと考えられる。
「天の御国」と「神の国」
ここで、イエスが伝えたメッセージに関してマタイは「天の御国」という言葉を、マルコは「神の国」という異なる言葉を使っていることに注目しておきたい。これらは、何か異なる概念を伝えているのか。それとも、同じ概念(メシア的王国)を異なる言葉で表しているだけなのか。
マタイは6:33; 12:8; 19:24; 21:31, 43の5箇所を除いて、「神の国」ではなく「天の御国」という用語を用いている。これは、マタイだけに見られる用語である。しかし、マタイ19:23–24では、同じ概念を指して「天の御国」(23節)と「神の国」(24節)の両方が使われている。また、マタイ19:23の並行箇所であるマルコ10:23でも「神の国」という用語が使われている。よって、マタイは「神の国」と同じ概念を指して「天の御国」と言っているようである。
彼がこのように言い換えている理由として広く見られる説明は、彼が神の御名を過度に使うことを嫌うユダヤ人読者に配慮したからというものである*10。確かにこの説明は「完全に無視することはできない」が、マタイが「神の国」という表現も使っているということを十分に説明できているとはいえないだろう*11。
マタイが「天の御国」という用語を使っていることについては、他にも様々な理由が考察されている。おそらく第一には、この王国が「天」におられる神からもたらされるものだということが強調されているのであろう*12。また、もしかすると、ダニエル書7:13–14で、メシアの王国が天から来る「人の子のような方」によってもたらされると言われていることに由来しているのかもしれない*13。いずれにしろ、「天の御国」と「神の国」は強調点こそ違いがあるかもしれないものの、指し示しているのは同じ概念だと考えられる*14。
「近づいた」神の国
それでは、バプテスマのヨハネおよびイエスによる「メシアの王国が近づいた」という宣言は、何を意味しているのだろうか。多くの場合、この宣言は、メシアの王国が既に到来したことを示唆しているものと考えられている。たとえば、マタイの注解者の多くは、3:2および4:17の宣言が、12:28の「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」という宣言と同じ意味であると指摘している*15。すなわち、「王国が近づいた」と宣言された時点で、メシアの王国が何らかの形で到来/実現したということである。一例として考えられるのは、メシアを通して神の支配がもたらされ始めたという意味での王国の到来である。
このように考える注解者の多くは、この時点でメシアの王国が完全に成就したと考えているわけではない。特にマタイ4:17の「近づいた」という宣言においては、「王国は未だ将来のこと」なのである*16。ここには、「王国は既に到来した、しかし完全な成就は将来に実現する」という「既に/未だ」(already/not yet)のアプローチが見られる。
しかし、王国が「近づいた」という宣言には、本当に「既に到来した」という概念が含まれているのだろうか。ここで「近づいた」と訳されているギリシャ語(ēggiken)は、「天の御国/神の国が近づいた」という宣言または類似した表現(マタ3:2; 4:17; 10:7; マコ1:15; ルカ10:9, 11)を除くすべての場合(マタ26:45, 46; マコ14:42; ルカ21:8, 20; ロマ13:12; ヤコ5:8; Iペテ4:7)において、「差し迫った、またはすぐに起ころうとしている出来事」、すなわち「すぐそこまで来ているが、実際に到来してはいない出来事」を示している*17。
また、「近づいた」という宣言に「既に到来した」という意味を読み込むのは、特にバプテスマのヨハネの宣言に関しては不自然だろう。なぜなら、彼はあくまでメシアの先駆者であり、メシア本人ではないからである(ヨハ1:19–23)。少なくとも彼の宣言に関しては、文字通りメシアの王国の到来が「近づいた」ものとして見る方が良いと考えられる。そして、ヨハネの宣言が「メシアの王国はまだ到来してはいないが、すぐそこまで近づいた」という文字通りの意味のものだったとすれば、全く同じ言葉遣いをしているイエスの宣言に関しても、同じ意味で捉えた方が適切ではないだろうか。
さて、マルコの記録では、イエスのメッセージは「時が満ち」たという宣言によって始まっている。この宣言は、「歴史における決定的な瞬間」を告げるものだったといえるだろう*18。イエスは、永遠にイスラエルを治める王となる者である自らが到来し、王国がすぐそこまで近づいていることを告げられた。これは、預言者たちの告げていた「歴史の最終段階」が始まったという宣言だったのである*19。パウロもまた、イエスと似た表現を使って、次のように書いている。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。」(ガラ4:4)*20
イエスのこのメッセージによって、「イスラエルは、ダビデの王座に就いて治めるメシアの到来を知った」*21。イスラエルが待ち望んでいた契約の成就と王国の時代は、ナザレのイエスとともに、すぐ目の前に迫っていたのである。
悔い改めの呼びかけ
しかし、ヨハネとイエスの両者は、王国が近づいたことを宣言しただけではない。そこには、「悔い改めなさい」という命令が付随していた(マタ3:2; 4:17; cf. マコ1:15)。この命令を理解するために重要なのは、王国が近づいたという宣言、また悔い改めよという命令が、イスラエルの民に向けられていたということである(マタ10:5–7; 11:20–24)*22。
既にモーセ五書や預言書から見てきたように、イスラエルの回復およびメシアの王国樹立の時には、民の悔い改めが必要であることが明らかにされていた(レビ26:40–45; 申30:1–2)。いわば、イスラエルが民族として罪を告白し、悔い改めることが、メシア的王国実現の「大前提となる条件」なのである*23。
そして今、「預言されていた王国は目前に迫っていた。よって、イスラエルはそれに備え、悔い改める必要があった。王国は、単に民族性に基づいて与えられるのではない。肉体的にユダヤ人であるだけでは、不十分である(ロマ9:6)。王国に入るための必要条件は、悔い改めである。ヨハネ3:3でイエスが宣言されたように、『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』のである」*24。
イエスは、誕生の前にダビデの子/メシアであると告げられ、またそう期待されていただけではない。彼自身が、自らが王国をもたらすイスラエルのメシアであると自覚していた。そして、自らにおいてイスラエルの希望が実現することを、自ら民に宣べ伝えたのである。
*1:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。
*2:BDAG, 168. なお、同様な意味を持つヘブライ語にmalḵûṯ(民24:7; Iサム20:31; I列2:12; I歴11:10など)およびmamlāḵâ(創10:10; 出19:6; 申17:18, 20; IIサム7:13, 16; イザ9:7; ミカ4:8など)がある。
*3:A・E・マクグラス『キリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館、2002年)753頁。
*4:Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism, 84.
*5:Graeme Goldsworthy, “The Kingdom of God as Hermeneutic Grid,” Southern Baptist Journal of Theology 12/1 (Spring 2008): 7.
*6:Vlach, He Will Reign Forever, 29.
*7:聖書における神の王国に関する序論的考察は、Ibid., 21–53を参照のこと。
*8:Merrill, Everlasting Dominion, 646–48.
*9:Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism, 87; Vlach, He Will Reign Forever, 275.
*10:E.g., David L. Turner, Matthew, BECNT (Grand Rapids: Baker, 2008), 107; Michael G. Vanlaningham, “Matthew,” in The Moody Bible Commentary, 1458.
*11:D. A. Carson, “Matthew,” in The Expositor’s Bible Commentary, rev. ed., 9:129. 特にマタ19:23, 24における両方の用語の併用は、この考え方では十分に説明できるとは思われない。
*12:Vlach, He Will Reign Forever, 268.
*13:Ibid.
*14:Jonathan T. Pennington, “The Kingdom of Heaven in the Gospel of Matthew,” Southern Baptist Journal of Theology 12/1 (Spring 2008): 50. 「天の御国」に関するより詳しい考察は以下を参照のこと。Ibid., 44–51; Carson, “Matthew,” 9:129; Turner, Matthew, 37–44.
*15:E.g., Carson, “Matthew,” 9:129; Turner, Matthew, 107; Craig L. Blomberg, Matthew, NAC (Nashville, TN: B&H, 1992), 74; Grant R. Osborne, Matthew, ZECNT (Grand Rapids: Zondervan, 2010), 111.
ただしCarsonは、3:2の「近づいた」が12:28の「来ている」と同じ意味であるという解釈は「可能だが、確かではない」と指摘している(“Matthew,” 9:129)。
*16:Ibid., 9:146. Cf. Turner, Matthew, 107.
*17:Vlach, He Will Reign Forever, 273.
*18:James R. Edwards, The Gospel According to Mark, PNTC (Grand Rapids: Eerdmans, 2002), 47.
*19:Ibid.
*20:マコ1:15およびガラ4:4の両者で「時」と訳されている言葉について、マルコはkairosを使っているが、パウロはchronosを使っている。マルコは約束されていた時代が始まるという決定的な瞬間を強調しており(R. T. France, The Gospel of Mark, NIGTC [Grand Rapids: Eerdmans, 2002], 91)、パウロはその時代が既に始まっていることを強調しているのであろう(Schreiner, Galatians, ZECNT [Grand Rapids: Zondervan, 2010], 270; cf. エペ1:10)。
*21:Lou Barbieri, “Mark,” in The Moody Bible Commentary, 1520.
*22:Vlach, He Will Reign Forever, 276.
*24:Vlach, He Will Reign Forever, 277. 文中のヨハ3:3引用は聖書協会共同訳による。