イエスがおそらく公生涯の前半に語られた教えの中で、メシアと契約の成就という視点から無視することができないのが、いわゆる「山上の説教」である。ここでは、特に説教の序盤で語られた「八福の教え」(マタ5:3–12)と「律法や預言書」に関する教え(5:17–18)に注目したい。
山上の説教
マタイは、4:17の「天の御国が近づいた」*1 というイエスのメッセージの後で、最初の弟子たちの召命(4:18–22)を記している。これは、イスラエルの中である人々がイエスの御国のメッセージを受け入れたことを示唆している。また、最初の弟子たちは、後に十二使徒のメンバーとしても選ばれることになる(10:1–4)。この十二人は、イエスが宣言した王国において「イスラエルの十二の部族を治める」ために選ばれた者たちでもある(19:28)*2。彼らは、王なるメシアの代理人であり、またメシアの同労者としても招かれたといえるだろう。
マタイ4:23–25は、イエスがガリラヤ全域で「御国の福音を宣べ伝え」、様々な奇跡を行われたことを記録している。メシアの奇跡は、前回述べたように、王国の祝福の「前味」だった。マタイの福音書における山上の説教に至るまでの文脈は、イエスが王なるメシアとして来られたこと、そして奇跡という形で王国の祝福の前触れがもたらされ始めたことを示唆している。
王はご自分の働きを開始された。約束されていた王国の設立を期待して、群衆が王に従って行った。[山上の]説教の直近の状況説明は、マタイ4:23–5:2で与えられている。王は大勢の群衆を見て、山に登られた。弟子たちが彼に従った。王は、ラビ的教師の慣習に倣って腰を下ろされ、彼らに教え始められた。*3
このような文脈に置かれている山上の説教の本質とは何なのか。これはどういった目的で語られた説教なのか。こうした問題については、様々な見解が提唱されている。たとえば、この説教は新しい契約の律法を教えるものであるという見解もあれば*4、メシアによるモーセの律法の正統的解釈を提示するものであるという見解もある*5。これは重要かつ本質的な問題ではあるが、非常に複雑な問題でもあるため、ここでは最低限の情報を押さえておくに留めたい*6。
マタイの福音書の読者が基本的に一致することができるのは、山上の説教の統一的テーマのひとつが「天の御国」であるということだろう*7。「天の御国」「御国」「神の国」といった用語は、説教の冒頭部(5:3, 10)にも、本論部(5:19, 20; 6:33)にも登場している。あの「主の祈り」も、「御国が来ますように」という祈りを含んでいる(6:10)。また、説教の結論部のうち7:21–23は、天の御国に入ることができるのはどのような者かという教えになっている。よって、山上の説教は全体として、イエスが宣べ伝えていた神の国(メシアの王国)に関する教えをまとめたものであるといえるだろう。
八福の教え
八福の教えと御国の祝福
説教の冒頭に置かれているのは、「〜は幸いです」という言い回しが連続していく「八福の教え」である。この非常に有名な教えもまた、テーマは天の御国であるといえる。最初と最後の「幸い」(5:3, 10)は、「天の御国はその人たちのものだからです」というフレーズで締め括られている。その間で、より具体的な「幸い」の理由が挿入されているのである。
- 心の貧しい者の幸い:天の御国はその人たちのものである(v. 3)。
- 悲しむ者の幸い:その人たちは慰められる(v. 4)。
- 柔和な者の幸い:その人たちは地を受け継ぐ(v. 5)。
- 義に飢え乾く者の幸い:その人たちは満ち足りる(v. 6)。
- あわれみ深い者の幸い:その人たちはあわれみを受ける(v. 7)。
- 心のきよい者の幸い:その人たちは神を見る(v. 8)。
- 平和をつくる者の幸い:その人たちは神の子どもと呼ばれる(v. 9)。
- 義のために迫害されている者の幸い:天の御国はその人たちのものである(v. 10)。
イエスの「天の御国は近づいた」という宣言からの流れをふまえると、八福の教えは、「近づいた」と宣言されていた神の国が将来実現する際に与えられる祝福を表現しているものといえるだろう*8。既に確認したように、この教えは、イエスに従ってきた弟子たちに語られたものである(5:1–2)。彼らは、イエスが宣べ伝えたメッセージに従って「天の御国が近づいた」ことを信じ、「悔い改め」に応答した人々であるといえよう。よって、八福の教えは、集まってきた弟子たちを御国に入れられる者として祝福し、御国が実現する際に彼らに与えられる新しい契約の祝福を教えているものなのである*9。
八福の教えとイザヤ書61章
多くの学者は、八福の教えの背景にイザヤ書61章があることを指摘している*10。イザヤ書は、苦難の中にあるイスラエルの民を「貧しい人」(イザ61:1)、「すべての嘆き悲しむ者」(61:2)などと表現し、彼らに与えられる慰めと祝福を伝えている。また、それらの祝福は、メシアが新しい契約に基づくイスラエルの回復をもたらす際に実現するものである。すなわち、マタイの言う天の御国における祝福が表現されているのである。確かに、イザヤ書61章はこの点において、イスラエルの信仰者が天の御国で与えられる祝福を伝える八福の教えと重なっている。
前回見たように、ルカ4:18–21において、イエスはイザヤ書61章から引用して、ご自分が神の約束を成就させるメシアであることを宣言された*11。ご自分に従う者の「幸い」を教える際にも同じ章を用いているというのは、大変興味深い。もしこの見解が正しければ、イエスご自身にとってイザヤ書61章がいかに重要であったかを伺い知ることができよう。
第3の幸いについて
八福の教えの中でも、メシアの教えと聖書的契約の関係を考える上で最も重要なのが、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(マタ5:5)という3つ目の「幸い」である。そして、ここにもイザヤ書61章への言及が見られるものと考えられる。
まず明らかなのは、3つ目の「幸い」が詩篇37:11に言及したものであるということである。詩篇では次のように歌われている。
しかし 柔和な人は地を受け継ぎ
豊かな繁栄を自らの喜びとする。
一方で、マタイ5:5の「地を受け継ぐ」という表現は、イザヤ書61:7を想起させるものにもなっている。イザヤは次のように書いている。
あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、
人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。
それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、
とこしえの喜びが自分のものとなる。
ここで、人々が「自分の地で二倍のものを所有」するということは、人々が地を所有している(受け継いでいる)ことを前提としている。しかし、それだけではなく、七十人訳では「地を二度受け継ぐ」という直接的な訳文が提示されている。
マタイ5:5の「地を受け継ぐ」は、イザヤ書61:7の七十人訳と同じ表現となっている。詩篇37:11の七十人訳(36:11)では、「地を受け継ぎ」の「地」に定冠詞が付されていない。一方で、イザヤ書61:7の七十人訳では「地」に定冠詞(tēn)が付されている。そして、マタイの場合も「地」には同じ定冠詞が付されているのである。
したがって、マタイ5:5は詩篇37:11への言及であると同時に、イザヤ書61:7が組み込まれている可能性が考えられる。「イザヤ書61章は地を受け継ぐことに言及しており(イザ61:7)、LXXにおける『彼らはその地を受け継ぐ』という言葉は、マタ5:5bの言葉遣い(klēronomēsousin tēn gēn)と一致している。もしそのような暗示が意図されていたとしたら、この幸いは、イエスがイザヤ書61章のしもべである……ことを、さらに確証させることになる。」*12 マタイ5:3–4の背後、また八福の教え全体の背後にイザヤ書61章があるのだとすれば、これは大いにあり得そうなことである。
イエスご自身が、ルカ4:20で実質的に自らを「イザヤ書61章の約束を成就させるイザヤのしもべである」*13 と宣言していたことからも、詩篇における土地の約束の希望と、イザヤ書における同じ希望が組み合わされていると考えることに神学的な矛盾はない。詩篇37篇はダビデによる詩篇であり、37:11では、アブラハム契約以降与えられてきた土地の約束の成就が歌われている。そして、イザヤ書61章は、メシアであり主のしもべであるダビデの子によって、新しい契約が成就するという希望を伝えている。新しい契約は、アブラハム契約やダビデ契約など、諸契約の成就をもたらすものである。したがって、メシアでありしもべであるイエスによって、アブラハム契約の土地の約束も成就することが期待される*14。
よって、イエスの3番目の幸いは、イスラエルが民族的に再生されるという希望を語っている。そこには、場合によっては、地を取り戻すということも含まれている。……イエスの幸いの教えと、地を再び受け継ぐだろうという約束への言及は、聴衆の心の琴線に触れ、彼らを希望にあふれさせたことであろう。*15
すなわち、イエスは八福の教えにおいても、諸契約がメシアであるご自分にあって成就すると宣言しておられるのである。
律法や預言者に関する教え
旧約聖書の成就
イエスの教えにおける「成就」という概念を考えるためには、マタイ5:17–18も非常に重要である。ここでは、イエスが諸契約も含め、旧約聖書で教えられていたこと全体を成就させる方であることが強調されている。
わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。(マタ5:17–18)
イエスはここで「律法や預言者」を持ち出しておられる。これは、イエス時代のユダヤ人が聖書(旧約聖書)全体を表現する際によく用いた言い回しである(マタ22:40; ルカ16:16; 使13:15; ロマ3:21など)。また、より省略された言い回しとして、単に「律法」と言うだけで旧約全体を指す場合もあった(ヨハ10:34; 12:34; 15:25; Iコリ14:21)。よって、17節の「律法や預言者」のみならず18節の「律法」もまた、モーセの律法だけではなく、旧約全体を指していると考えた方が良いだろう*16。
すなわち、イエスは旧約全体の内容を「廃棄する」──否定したり、台無しにしたり、打ち壊したりするために来られたのではない。そのように考えてはならない。むしろ、イエスは旧約全体が伝えていたことを「成就する」ために来られたのである。
メシアの従順と旧約の成就
イエスは、旧約全体が指し示しているメシアであるという意味で、旧約全体を「成就する」方である*17。そこには当然、具体的なメシアに関する預言も含まれる。しかしながら、イエスが旧約を成就するということは、単にメシア預言に限定されるものではなく、旧約全体が要求していた律法への従順も含んでいるものと考えられる*18。
モーセの律法は、イスラエルが「【主】が選ばれる者」を王として立てなければならないと定める(申17:15)と同時に、選ばれた王が律法に従うことも要求していた(17:16–20)。この考え方は、ダビデ契約の中にも見られる。ダビデ契約は、王が神に従順であることを要求しており(IIサム7:14)、ダビデ自身がそれを律法への従順と理解していた(I列2:3–4)。列王記や歴代誌が記している南ユダ王国の歴史は、ダビデ家の王が律法に従順であれば王国は栄え、不従順であればさばかれるという法則性を示している。しかし、結局ダビデから始まった王朝は、王たちの不従順によって滅ぼされてしまった(第4回参照)*19 。
一方で、預言者たちが伝えていた究極的な王──メシアの姿は、義なる王、すなわち自らが神に従順に仕え、またその従順を民に示し、その従順さをもって公正に民を治める王であった(イザ9:1–6; 11:1–9; エレ23:5–6; エゼ34:23–24など)*20。このように、旧約自体の視点からも、メシアによる「成就」には、律法への従順が含まれていることがわかる*21。
事実、イエスは後にユダヤ人たちとの論争において、「あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか」と問われた(ヨハ8:46)。このような問いは、完ぺきに律法を遵守している者が発するのでなければ意味を成さないだろう。さらに、イエスと寝食を共にしていた弟子のペテロやヨハネまでもが、イエスは全く罪のない方であったと証言しているのだ(Iペテ2:22; Iヨハ3:5)。
イエスは、イスラエルの王としてモーセ契約の律法に忠実に、またダビデの子なる王としてダビデ契約の要求に忠実に従われた。彼はモーセの律法への完全なる従順を通して、全人類の代表として、神のことばに従われたのである。このような従順は、アブラハムが示したような神への信頼(創15:6)に基づいている。むしろ、イエスの信仰と従順は、アブラハムが示した信仰の完成形である(ヘブ12:2参照)。これによって、イエスが諸国民に祝福をもたらすアブラハムの子孫の代表であり、「大いなる国民」であるイスラエルの代表であり、そして究極的なダビデの子であることが示された。
以上のことから、マタイ5:17–18が示唆しているのは、イエスは旧約全体が指し示すメシアであり、モーセの律法の要求を完全に成し遂げる義なる王であるということだ。イエスはこの両方の意味で、旧約全体を「成就する」方なのである*22。
結論
今回は山上の説教の中でも八福の教え(特に第3の幸い)と、「律法や預言者」に関する教えに着目してきた。実際には、イエスと諸契約の成就について包括的に論じるのであれば、この説教全体を見るべきだろう。しかし、ここで扱ってきたいくつかの要素をふまえるだけでも、第9回まで旧約から論じてきた契約の希望と、イエス・キリストとの間にある深い連続性が見えてくる。
イエスは父祖アブラハムの信仰に倣い、モーセの律法に従うことが期待されていた「大いなる国民」──すなわち「祭司の王国」の代表である。また、律法への従順が期待された究極的なダビデの子である。さらに、イエスは律法を守り通されただけではなく、旧約で約束されていた全てのことを成就させる方でもある。この方と、この方の御国にあって、アブラハム契約の土地の約束が成就する。そして、その御国における新しい契約の祝福もまた、この方にあって完全に成就するのである。
しかし、イザヤ書の預言からすれば、新しい契約が実現するためには、その土台にまずメシアの犠牲が据えられなければならない。これは歴史を通して、どのように実現したのか。次章で扱う内容から、メシアの生涯は、はっきりと十字架への道筋を描き始めていく。
*1:特に断りがない限り、聖書引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会による。
*2:Wilkins, “Israel according to the Gospels,” 91–92.
*3:Stanley D. Toussaint, Behold the King: A Study of Matthew (Grand Rapids: Kregel, 1980), 94.
*4:Charles Quarles, Sermon on the Mount: Restoring Christ’s Message to the Modern Church, NAC Studies in Bible and Theology (Nashville, TN: B&H, 2011), 31–34; Vlach, “How Jesus Used the Old Testament in Matthew 5:21–48,” July 25, 2019, accessed January 9, 2020.
*5:Fruchtenbaum, Yeshua, 2:273–333.
*6:諸見解の分類および概要については、Quarles, Sermon on the Mount, 4–11; Vlach, He Will Reign Forever, 299–302を参照のこと。特にディスペンセーショナリストによる諸見解の分類および概要に着目したものとしては、Martin, “Christ, the Fulfillment of the Law in the Sermon on the Mount,” in Dispensationalism, Israel and the Church, 248–63を参照のこと。
*7:Carson, “Matthew,” 9:157; Robert W. Yarbrough, “The Kingdom of God in the New Testament: Matthew and Revelation,” in The Kingdom of God, eds. Christopher W. Morgan and Robert A. Peterson (Wheaton, IL: Crossway, 2012), 113.
*8:最初と最後の「天の御国はその人たちのものです」は現在時制だが、その間(5:4–9)の内容は未来時制となっている。Vlach (He Will Reign Forever, 303–4)は、Robert H. Gundryの注解を参照しつつ、八福の教え全体は未来時制で解釈されるべきだと主張している。Cf. Gundry, Matthew: A Commentary on His Handbook for a Mixed Church under Persecution (Grand Rapids: Eerdmans, 1994), 68.
*9:Wilkins, “Israel according to the Gospels,” 94; Steven L. James, New Creation Eschatology and the Land: A Survey of Contemporary Perspectives (Eugene, OR: Wipf and Stock, 2017), 125–26.
*10:E.g., Bock, Jesus according to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels (Grand Rapids: Baker, 2002), 128–29; Craig A. Evans, Matthew, NCBC (New York: Cambridge University Press, 2012), 103; Blomberg, “Matthew,” in Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, 20; Carson, “Matthew,” 9:160.
*11:Bockは「マタ5:3–12はルカ4:16–30とキリスト論的にオーバーラップしている」と述べている(Jesus according to Scripture, 128)。
*12:Quarles, Sermon on the Mount, 56. マタ5:5におけるイザ61:7LXXの引用については、以下も参照のこと。Nelson S. Hsieh, “Matthew 5:5 and the Old Testament Land Promises: An Inheritance of the Earth or the Land of Israel?” The Master’s Seminary Journal 28/1 (Spring 2017): 41–75; Blomberg, “Matthew,” 20.
なお、Quarlesは「地」に定冠詞が付されていることを根拠にして、マタイ5:5やイザ61:7LXXでの「地」は「地上全体」へと普遍化されていると主張している(cf. Carson, “Matthew,” 9:163)。一方で、Hsiehは、LXXにおけるklēronomeō+定冠詞+gēの用例などもふまえて、マタイがイスラエルの地に関する言及であることを明確にさせるために定冠詞を付したものと推測している(“Matthew 5:5 and the Old Testament Land Promises,” 61–63)。
さらに、「地の普遍化」という概念の根拠としては死海文書4Q171が挙げられることが多いが、Hsiehはそれについても「深刻な誤解であり、明らかにテキストを誤読した結果である」と反論している(Ibid., 51–52)。
*13:Ibid., 65.
*14:Evansは次のように述べている。「柔和な者が『地を受け継ぐ』(ギリシャ語:kleronomeinとge)という約束は、神がアブラハムに与えた約束を思い起こさせる。『わたしは、カルデア人のウルからあなたを連れ出し、この地[ge]をあなたに受け継がせる[kleronomein]ために、あなたに与える【主】である。』(創15:7 RSV; cf. 28:4)」(Matthew, 106.)
*15:Ibid. マタ5:5をイスラエルへの土地の約束に対する言及とする解釈については、以下も参照のこと。Hsieh, “Matthew 5:5 and the Old Testament Land Promises,” 41–75; Vlach, He Will Reign Forever, 305–10; James, New Creation Eschatology and the Land, 124–26.
*16:Carson, “Matthew,” 9:173; Quarles, Sermon on the Mount, 94; Martin, “Christ, the Fulfillment of the Law in the Sermon on the Mount,” 254–55; Vlach, He Will Reign Forever, 310–13; idem, “The Meaning of Matthew 5:17–19, Part 2: Understanding ‘the Law or the Prophets,’” March 18, 2019, accessed January 10, 2020.
*17:Carson, “Matthew,” 9:174–75.
*18:Evans, Matthew, 115.
*19:W・ブルッゲマン『旧約聖書神学用語辞典──響き合う信仰』小友聡・左近豊監訳(日本キリスト教団出版局、2015年)87頁。
*20:前掲書、87–88頁。
*21:Block, “Deuteronomy 17:14–20: The Foundations of Messianic Kingship,” in The Moody Handbook of Messianic Prophecy, 309–23.
*22:Osborne, Matthew, 182; Quarles, Sermon on the Mount, 93.