軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

こんな時こそ、聖書「通読」のススメ

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こんなタイトルですが、特に凝ったハウツー的なものではなく、単純に「おすすめですよ」という短い記事です。

自分の時間は増えたけど……

新型コロナウイルスで世間が騒がしく、また大変になっている中、いかがお過ごしでしょうか。礼拝の集会がお休みになったり、お仕事もテレワーク化したりという方も少なくないと思います。また、ここ最近の対応で、お疲れの方も多いと思います。情報を目にする・耳にするだけでも疲れますよね。

私も、所属教会の集会が休会やオンライン礼拝の形になったり、奉仕が中止か延期になったりしています。ということで時間は増えたのですが、コロナ騒動で仕事にも少しだけ影響があったりして、ちょっと疲れてきているところです。こういう時だからこそ、祈りとみことばを読む時間をしっかりと作って「メリハリ」を付けたいな、と思わされています。

というわけで、自分の時間は先月より増えたのですが、「聖書の物語と契約」シリーズの更新はもうしばらくお待ちください……いや、もうちょい先まで原稿はできているんです。が、もうちょっと再整理の必要と、そのためのインプットの必要を感じておりまして。

シリーズは今後、「契約」という視点からキリストの十字架、復活、そして教会の登場へと進んでいく予定です。ここで大きくなってくるのが「新しい契約」、具体的にはこの契約と教会の関係というテーマです。これは神学的にも盛んに議論されているテーマであるゆえ、シリーズを先に進める前に自分の理解を吟味しておきたいと思わされました。

そこで、持っている文献の中でこのテーマに関連するものに目を通したり、再びエレミヤ書に戻ってみたり、第一・第二コリントやヘブル書を読んだり……ということをしていたら、目的を見失って、聖書通読そのものが楽しくなってしまいまして。笑 一昨日あたりから創世記に戻って、モーセ五書の通読を始めちゃいました。(ちなみに、もうすぐ民数記が終わるところです)

「一冊ごと」の聖書通読

……今さらな話ですが、通読って楽しいですね。

聖書を読み学ぶ姿勢も色々ありますが、一言一句、表現一つひとつを厳密に見ていくことからもたくさん教えられますし、少しずつ立ち止まって黙想しながら読むことも、大きな祝福をいただけます。

同時に、聖書を、また聖書の各巻をひとまとまりの「本」として通読していくことも大切です。さっきご紹介した方法が「木を見る」読み方だとしたら、通読は「森を見る」読み方になるのでしょうかね。どんな本でもそうですが、聖書を学ぶときも「木を見て森を見る」必要があると思いますので、どちらの読み方も大切です。

私が最近楽しさを再発見している「通読」は、どちらかというと、旧新約聖書全体というより、聖書の各書物の「通読」です。聖書は66巻ひとまとまりの本であるというのが伝統的な(そして私の)理解ですが、その66巻それぞれが一冊の本でもあります。これらの本それぞれを通して著者が伝えようとしていることがあるわけです。そして、幾人もの著者が伝えようとしていることを積み上げていった時、聖書全体をひとまとまりの本として見る理解ができあがるのだと思います。

さて、創世記から通読し直す中で今回意識したのは、「モーセ五書として創世記から申命記までをひとまとまりで読んでみよう」ということでした。ご存知のように、創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記は、合わせて「モーセ五書」と呼ばれています。確かに各書は明確に区分される要素がありますが、同時にひとくくりにもなっています*1

たとえば、出エジプト記1:1の「さてヤコブとともに、それぞれ自分の家族を連れてエジプトに来た、イスラエルの息子たちの名は次のとおりである」*2 という文章は、創世記からの繋がりを示しています。また、レビ記1:1はいきなり「【主】はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた」と始まっています。これは、レビ記出エジプト記からの繋がりの中で読まれるべきだということを示しているようです。ですので、私も今回、あえて創世記〜申命記を「一冊の本」として、区分をあまり意識することなく読み直そうと思った次第です。

今意識している読み方

具体的にどういう風に読んでいるかといいますと、まず今やっている通読では、「今夜は○章から△章まで」ということは、あまり意識していません。というか、章や節は、あまり意識しないようにして読んでいます。というのも、私たちが今手にしている聖書の章や節というのは後代のユダヤ教およびキリスト教の学者たちによって確定されたもので、必ずしも本文の文脈や内容に沿ったものではないからです*3。もちろん、章節の区分があることの恩恵は計り知れません! ただ、今私がやっている通読では「普通に本を読むように聖書(の各書)を読もう」と心がけています。ですので、章節はそれほど意識していません。

「普通に本を読むように」読む上でむしろ意識しているのは、翻訳聖書(今は新改訳2017を使っています)の段落分けです。読書する時、段落って結構大事なんですよね。もちろん、聖書の段落分けは翻訳者たちによるものであり、原典にはありません。しかし、特にモーセ五書や他の歴史書のように主にナラティヴ(物語)を扱っている本については、翻訳者の方々が文脈と内容をふまえて設けてくださった段落分けはありがたいです。「この段落分け、おかしいんじゃない?」と思うことも時々ありますが、そういう時は脳内で補完しておくとして。日ごとの「区切り」は、今のところ段落を目安にしています。

もうひとつは、もっと個人的な心がけになりますが、線を引いたりメモを取ったりしないということです。学術書は別として、小説なんかを読むときは、線を引いたりメモを取ったりはせずにざーっと読んでいます。まず本文に集中するわけです。というか、マルチタスクが苦手なので笑、読むことだけに集中しないと、本文の世界に浸れないんですね。ノートに抜き書きしたりメモを取ったりするのは、後でその小説を分析したりするときです。というわけで、私が聖書を通読するときは本文に集中したい時なので、余計なことはせず、とにかく読み進めています。時々、思わず立ち止まらずにはいられないこともありますけどね。

私はこういう風に聖書を読めるよう、あえてメモ書きもマーキングもない聖書を一冊用意しています。メモやマーキングがあると気が散っちゃうんです。これは、聖書本文だけの世界に浸るためにも、余裕があればぜひおすすめしたいと思います。

こういう風に聖書の各書を「一冊の本」として読んでいると、深く再確認できたこととか、思わぬ発見がたくさんあります。

たとえば最近気づいたこと

最近の通読で再発見したことだと、たとえばモーセ五書全体のナラティヴの壮大さとか、美しさですかね。創世記は天地創造という壮大な話で始まりますが、その物語はアブラハム、イサク、ヤコブとその子孫への話へと狭まっていきます。でもそれは、「地のすべての部族」が、彼らによって「祝福される」ためなのですね(創12:3)。どうしようもない堕落した人間に回復の祝福をお与えになるため、神はイスラエルという器をお選びになった。そして、ご自分の器である彼らのただ中に住まわれ、そこから諸国民へと祝福を向けようとされた。そのために神は、シナイ山イスラエルと契約を結ばれるわけです。これは今まで何度も──「聖書の物語と契約」シリーズを準備する中でも確認してきたストーリーラインです。今回の通読でも改めて、モーセ五書に流れているストーリーラインの美しさ、壮大さ、大切さというものを認識することができました。

そういうナラティヴの中で読んでみると、出エジプト記以降で律法の具体的な掟が出てくるセクションも、また違った味わいがあります。特に、出エジプト記の幕屋の規定と、レビ記の冒頭から続く祭儀の規定。これらの律法が、一連の流れをもって伝えられているということは、今回の通読で初めて実感を持って納得できたことでした。人が神の臨在される園から追放されたという物語の冒頭からの流れがあったからこそ、神が民のただ中に住まわれる場としての幕屋の規定の意味合いが見えてきます。

レビ記冒頭の動物の犠牲に関する教えなんか、無味乾燥どころか、血なまぐさくすら思えますよね。でも、出エジプト以降のイスラエルの反抗が繰り返されたという流れで読んでみると、罪深い民が神と正しい関係を持つことができるように与えられた、恵みのルールであることが透けて見えてきます。そして、既にキリストの十字架の犠牲を自らの信仰の、世界観の大前提として持っているクリスチャンであるならば、ここからキリストの贖いに対する理解が間違いなく深められていくはずです。

メガネに慣れる

もちろん、聖書は古代中近東で書かれた本ですから、今の私たちには歴史的、文化的、地理的に理解し難いところもあります。そういうところは、もっとじっくりとした聖書研究の中で、他のツール(注解書とか聖書事典とか)で補っていきたいところです。でも、聖書通読の中で、独特な言い回しや文化的な背景に慣れていくことも大切だと思っています。

ある作者の小説をずーっと読んでいくと、作者の言い回しとか、作者の背後にある経験とかに慣れていって、その作者の物の見方を自分のメガネとして持つことができるようになります。そういう風にして、聖書の言い回しとか、出て来る文化的背景に慣れていくとき、聖書の世界観や価値観が自分のメガネとして身についてくる──そういう側面も、あると思うのですね。

そのメガネにおかしなところがないか、フレームが曲がっていないかといったことを聖書研究や礼拝説教を通して確認して、また通読の中でメガネのレンズの曇りがちょっとずつ取れていく。と、これはあくまで私の体験に過ぎませんけれども、こんなサイクルで聖書理解が深められてきています。まだまだレンズは曇っていますけれども、先週より今週、昨日より今日の方が見えるようになってきているのは確かです。こういうサイクルの中で、とにかく読むという通読は大きな役割を担っているなぁと、この記事を書きながら改めて感じました。

読者の皆様におかれましても、もし自分の時間が増えているけど何をしたらいいか……という方がおられましたら、聖書通読はすごく楽しいですよ! こういう時だからこそ、聖書の各巻を一冊一冊、味わって読んでみることをおすすめしたいと思います。

*1:参照:Eugene E. Carpenter, “Pentateuch,” in The International Standard Bible Encyclopedia, rev. ed., vol. 3, eds. Geoffrey W. Bromiley, et al. (Grand Rapids: Eerdmans, 1986), 740–753.

*2:引用は聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会によります。

*3:富井悠夫「旧約聖書」『新実用聖書注解』宇田進・富井悠夫・宮村武夫共編(いのちのことば社、2008年)55–56頁。