軌跡と覚書

キリスト教に関する雑感とか。

ディスペンセーション主義から見た旧新約聖書の「非連続性」(Michael Vlach)

本稿は米国The Master's Seminaryの神学教授、マイケル・J・ヴラック(Michael J. Vlach)氏のブログからの翻訳記事です。元記事はこちら↓

mikevlach.blogspot.jp

また、先のポスト↓の続きとなっています。

balien.hatenablog.com

なお、同様な内容は(一部改訂された上で)Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, revised and updated edition (Los Angels: Theological Studies Press, 2017), pp. 79–83にも掲載されています。

トピック

Dispensationalism and Discontinuity(ディスペンセーション主義と非連続性)

先のブログ記事で、私はディスペンセーション主義における8つの連続的要素に言及した。本稿は、ディスペンセーション主義における非連続的要素について論じるものである。ディスペンセーション主義における特筆すべき非連続的要素は5つある。先の記事「ディスペンセーション主義と連続性」と同様に、ここでの目的はこのトピックについて網羅することではない。本稿の目的は、ディスペンセーション主義を理解し説明するために、この体系における主要な非連続的要素を指摘していくことである。

1 イスラエルと教会

ディスペンセーション主義者はイスラエルと教会の聖書的区別を主張している。イスラエルアブラハム、イサク、ヤコブの肉体的子孫から構成される民族である。イスラエル人の中には救われる者も救われない者も存在しているが、聖書においてイスラエルという言葉には常に民族的要素が含まれている。一方で教会は、この時代においてメシアであるイエスを信じたユダヤ人と異邦人による新しい契約の共同体 the New Covenant communityである。教会はイスラエル人信者を含んでいるが(「神のイスラエル」ガラ6:16;ロマ9:6)、「イスラエル」と同じ存在ではない。新約聖書において「イスラエル」は73回登場するが、教会を指していることは一度もない。また、異邦人を指して「イスラエル」が使われている例もない。ディスペンセーション主義はイスラエルが異邦人に祝福をもたらす役割を持っていると主張する(創12:2–3)。しかし、この神のご計画は異邦人をイスラエルの中に組み込むというものではない。

出エジプト記19章では、イスラエル民族に、世界に対する神のご計画を実現させるための仲介的役割が与えられている。しかし、イスラエルの失敗、また彼らのメシアを拒否してしまったことにより、イエスの2つの来臨の間では教会が福音と御国の宣教を担うこととなった。神は現在のイスラエルの残りの者を救っておられる(ロマ11:1–6)。しかし、この時代においては教会が御国の計画を伝えるメッセンジャーであり、全世界に福音を伝える役割を担っているのである。神が将来イスラエルを民族的に救われる時(ロマ11:26)、彼らは再び奉仕と諸国民の統治のために仲介的役割を担うことになる。これは、諸国民を治めるメシア・イエスの下で起こることである(イザ2:2–4;マタ19:28;黙19:15)。しかしこの時代においては、神の御国のための主な代理人は教会である。

イスラエル旧約聖書に深く根差している存在である。一方、教会はメシアであるイエスを信じる全ての者から構成されている。彼らは聖霊による新しい契約の働きを経験した者たちである。よって、教会はペンテコステの日、聖霊がイエスを信じる者たちに注がれた時に始まった存在であるといえる(使2章)。「教会」を全ての時代の神の民と定義しようとする者もいるが、これは正しいとはいえない。教会という概念における主要な要素はイエスと新しい契約であり、これを経験しているのは未だ新約の聖徒だけなのである。

2 モーセ契約と新しい契約

モーセ契約はシナイ山イスラエルに与えられた、一時的かつ条件付の契約である(出19章)。モーセ契約の時代は、イエスの死と新しい契約の締結によって終了した(エペ2:15;ヘブ8:8–13)。ほとんどのディスペンセーション主義者は、モーセ契約全体がイエスの死とともに完結したと考えている。我々は今新しい契約によるイエスの祭司職の下にいるのであって、モーセ契約によるアロン的祭司制度の下に置かれているのではない。ヘブル人への手紙の著者が述べているように、「祭司職に変更があれば、律法にも必ず変更があるはず」である(ヘブ7:12、新共同訳)。結果として、ディスペンセーション主義者はキリスト者モーセ契約ではなく、新しい契約の下に置かれていると信じている。これと同様に、キリスト者が置かれている生活規範はモーセの律法ではなく、キリストの律法である。神の道徳規範は一貫しているため、キリストの律法とモーセの律法の間には多くの類似点がある。しかし、キリスト者はもはやモーセの律法に縛られてはいない。パウロがコリント人への手紙第一9:20–21で明確に述べているのは、彼がモーセの律法ではなくキリストの律法の下にいるということである*1

3 複数のディスペンセーション

すべてのキリスト者と同様に、ディスペンセーション主義者はディスペンセーション──神は時代によってご自分の民に異なる方法で働かれるという概念──が複数存在することを信じている。アダムとエバが堕落する前の時代は、堕落後の時代とは明らかに異なっている。現在の教会時代は、モーセ契約の下にあるイスラエル神政政治の時代とは異なっている。イエスの再臨に伴う王国では、我々が現在生きている時代とは異なり、イエスが地上から直接世界中を統治される(ゼカ14:9)。これらのディスペンセーションの間には違いがあるが、救いは常に恵みのみにより、信仰のみを通して、イエスの贖いを土台として与えられるものである。ディスペンセーションは変わっていくが、人が救われる方法は変わらない(創15:16;ロマ4章)。

ディスペンセーション主義者はディスペンセーションの数や特徴について議論を重ねている(これは非ディスペンセーション主義者においても同様である)。しかし、神は時代によって異なる方法で働かれるという認識においては一致している。ただし、救いの方法は歴史を通して変わらない。したがって、ディスペンセーションという概念は連続性と非連続性両方の根拠になっているといえる。

4 神の民

ディスペンセーションによって神の民という概念には変化が見られる。全ての神の民は同じ方法で救われている(すなわち、ここには連続性がある)。しかし、神の民を構成する者の概念は変化しているのである。アダムからモーセに至るまではイスラエル民族は存在せず、神の民という概念が特定の民族と結びつけられていることはなかった。パウロによれば、アダムからモーセまでの間、人々は言葉による特別啓示を受け取っていなくとも罪人であった(ロマ5:13–14参照)。

イスラエルが民族〔あるいは国家〕となると、神の民という概念はイスラエルおよびイスラエルからもたらされる救いのメッセージと密接に結びつけられることとなった。モーセ契約が有効である時代においては、信者になることは通常、イスラエルに帰属することを意味していた。しかし、イエスと新しい契約の到来により、神の民の概念はイスラエル人信者と共に異邦人信者をも含めるものへと拡張された*2。これは、一部の非ディスペンセーション主義者に見られるような、異邦人信者がユダヤ人もしくはイスラエルになったという主張とは異なる。そうではなく、異邦人信者はイスラエル人信者と共に神の民になったのである。これが、パウロがエペソ人への手紙2:11–3:6で論じていることであり、イザヤがイザヤ書19:24–25で預言していたことなのである(使15:14–18も参照のこと)。

5. 聖霊の働き

ディスペンセーション主義者の多くが、聖徒の内に内住されるという聖霊の働きは、イエスの昇天と、使徒の働き2章で描かれている聖霊の傾注によって始まったのだと信じている。イエスは死の前に使徒たちに対して、聖霊がともにおられるが、後には彼らの内に入られると未来形で教えている(ヨハ14:17)。*3

聖霊のご人格や特徴は不変である。しかし、旧約時代では、聖霊は選ばれた特定の人物の内に、一時的に住まわれるだけだった(出31:3参照)。だが今の時代では、聖霊はすべてのキリスト者の内に住まわれ、聖化のために力を与えてくださる。そして、このことはメシアであるイエスの死および昇天と密接に結びついているのである。旧約聖書の聖徒たちもまた聖霊によって救われたことは否定できない。しかし、今は新しい契約の締結に伴い、より優れた形で信者の聖化が実現可能となったのである(ロマ8:1–4参照)。したがって、新約時代に入って聖霊の働きは変化したのである。

結論

上記の5つの非連続的要素についてはまだ論じるべきことがたくさんある。しかし、ここでの主な目的は、ディスペンセーション主義は聖書において5つの非連続的要素を見出しているという点を強調することである。これらの要素は聖書の歴史的文法的釈義により自然に認識されるものであり、人為的に聖書のテキストに押し付けられたものではない。

原著者による注記:私は改訂ディスペンセーション主義者(a revised dispensationalist)として本稿を書いている。ここで書いてきたことが全てのディスペンセーション主義者に当てはまるわけではないことは理解している。また、他のディスペンセーション主義者とは言葉遣いが異なるだろうことも承知している。しかし、ここで指摘していることが、全体としてディスペンセーション主義の伝統を表現できているのは間違いないと思う。

*1:訳注:この点について、非ディスペンセーション主義者からの同様な主張については以下を参照のこと。Douglas J. Moo, "The Law of Moses or the Law of Christ," in Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 203–18.

*2:訳注:Vlachがここで言わんとしているのは、おそらく以下のようなことであると思われる。神の民が人種に関わりなく信者の総体であるという概念は時代によって変わるものではない。旧約時代にも、有名な例でいえばルツなど、人種的には異邦人でありながらも救われていた例はあった。しかし、旧約時代は信者はモーセ契約を遵守することが求められていたため、異邦人であっても、イスラエル民族に帰属することが求められていた。一方、新約時代では、異邦人信者はイスラエルに帰属する必要はなくなったのである。

*3:訳注:新改訳2017において、ヨハ14:17bは次のように訳されている。「この方[聖霊]はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(強調は引用者による。)