軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(6)正宗白鳥『内村鑑三─如何に生くべきか─』

正宗白鳥内村鑑三・我が生涯と文学』(講談社、1994年)

この前は若きキリスト者学生会主事らによる『生き方の問題なんだ。』を取り上げたが、訳あって正宗白鳥という作家の紹介から記事を始めた。最後の方でも白鳥に言及した。そうした訳のひとつは、白鳥が自身の内村鑑三論に「如何に生くべきか」という副題をつけていたからだった。『生き方の問題なんだ。』に手を出したのは、内村と白鳥という2人について思いを巡らす中で、この「如何に生くべきか」という問題を自分にも引きつけて考えようと思ったからだった。

十代の頃から「如何に生くべきか」を追い求めて、内村鑑三らを通してキリスト教に近づき、離れ、また内村に近づき……ということを繰り返してきた白鳥の人生は、とても興味深い。しかも彼が繰り返し近づき離れていったのは、聖書をそのままに信じていく福音主義キリスト教だった。「如何に生くべきか」を問うて一人の福音主義者である内村鑑三から、また聖書そのものから、白鳥はこの問題をどう考えていったのだろう。

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私の読書(5)大嶋重徳ほか『生き方の問題なんだ。』

大嶋重徳・桑島みくに・佐藤勇・吉村直人『生き方の問題なんだ。』(いのちのことば社、2017年)

今はもうあまり読まれなくなっているのかもしれないが、正宗白鳥という作家がいる。小説家でもあったが、むしろ批評家・評論家としての評価が高い作家である。彼は1879年生まれ、1962年没なので、明治期に生まれ、敗戦まで経験した。彼は若き日に内村鑑三に魅せられたものの、その後は反キリスト教的な、ニヒリズムに満ちた評論を書き続けた。しかし終戦後、彼は若き日の師・内村を考え直さざるを得なくなり、長編評論『内村鑑三』を1950年に上梓する。改めて内村と向き直った白鳥は、その評論に「如何に生くべきか」という副題をつけた。白鳥が再び内村から学び取ろうとしたのは、その「生き方」だったのである。

白鳥が惹かれていったキリスト者内村鑑三の「十字架を仰ぎ見、復活に希望を置き、再臨を待ち望み、大なる希望の中に善行を力む」という「生き方」を考える中で、やはりキリスト者である私自身が「如何に生くべきか」を考えざるを得なかった。それで、今年の2月に出版されていた本書の存在を思い出し、急いで取り寄せて目を通してみた。

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私の読書(4)内村鑑三の著作色々

私の地元である群馬県には「上毛かるた」という郷土かるたがある。このかるたの読み句を見ていくと、内村鑑三新島襄という、明治期の有名なクリスチャンが2人登場している。試しに、群馬出身のクリスチャンに「上毛かるたの『こ』って何?」「『へ』って何?」と訊いてみてください。小学校辺りまで群馬で過ごした人であれば、きっとすぐに「心の燈台 内村鑑三」「平和の使徒(つかい) 新島襄」と返って来ると思う。だから群馬出身である私にとって、「内村鑑三」というのは、初めてその名前を覚えたクリスチャンの一人なのだ。今でもその名前を聞くと、左上に十字架が黄色く輝き、その下で温和な顔つきで丸い顔のおじいさんが佇んでいるという、かるたの絵札を思い出すことができる。

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私の読書(3)遠藤周作『狐狸庵読書術』

遠藤周作『狐狸庵読書術』(河出文庫、2007年)

この間、友人たちと「何か熱中できる趣味があるか」という話題で盛り上がった。自分について考えてみると、たとえばギターを弾くことが好きだが、最近は中々取り組めていない。手をつければ必ず熱中できるというと、聖書研究が思い当たるのだが、恥ずかしながら聖書通読すら毎日毎日順調に進めることができていない。

だが、「読書」だけは小学校以来ほぼ毎日続けていることに気がついた。何であれ、本を読むということは欠かしていない。これは、とても飽きっぽい自分の性格からすれば驚異的なことだなぁ、とつくづく思わされた。聖書研究が好きになったのもこの習慣を持っていたからだと思う。また、このおかげで、卒業論文から修士論文に至るまでの文献調査も、特に苦に思うこともなかった。

もはや、私にとって読書は習慣と化している。電車で長時間移動するとなると、鞄に本が入っていなければ落ち着かない。小学校の時から読書が好きだったこともあるが、それが中高生になっても暇さえあればギターを弾くか、音楽を聴くか、本を読むかして過ごしていたせいだ。まさか電車の中でギターを弾くわけにはいかないので、音楽を聴くか本を読むかするしかない。それで、電車で長距離を移動するようなことがあれば、結局音楽を聴きながら読書をするようになった。

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私の読書(2)ドストエフスキー『悪霊』

ドストエフスキー『悪霊』上下巻、江川卓訳(新潮文庫、2004年改版)

前回、文学の勉強から学ぼうとしていることは、組織神学の「人間論」や「罪論」と関係しているのだと書いた。明治から昭和にかけての幾つかの文芸作品は、著者が信者ではないにしてもキリスト教とぶつかり、苦悩しながら生み出したということから、これらのテーマと関係してくる。また、20世紀のカトリック文学の内高い評価を得ているものも、基本的にはこれらのテーマが掘り下げられていると言うことができるだろう。

しかし、文学におけるキリスト教人間論・罪論というと、絶対に避けて通ることができないのは、この19世紀ロシアの大天才ドストエフスキーであり、中でも『悪霊』という小説である。

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