軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(3)遠藤周作『狐狸庵読書術』

遠藤周作『狐狸庵読書術』(河出文庫、2007年)

この間、友人たちと「何か熱中できる趣味があるか」という話題で盛り上がった。自分について考えてみると、たとえばギターを弾くことが好きだが、最近は中々取り組めていない。手をつければ必ず熱中できるというと、聖書研究が思い当たるのだが、恥ずかしながら聖書通読すら毎日毎日順調に進めることができていない。

だが、「読書」だけは小学校以来ほぼ毎日続けていることに気がついた。何であれ、本を読むということは欠かしていない。これは、とても飽きっぽい自分の性格からすれば驚異的なことだなぁ、とつくづく思わされた。聖書研究が好きになったのもこの習慣を持っていたからだと思う。また、このおかげで、卒業論文から修士論文に至るまでの文献調査も、特に苦に思うこともなかった。

もはや、私にとって読書は習慣と化している。電車で長時間移動するとなると、鞄に本が入っていなければ落ち着かない。小学校の時から読書が好きだったこともあるが、それが中高生になっても暇さえあればギターを弾くか、音楽を聴くか、本を読むかして過ごしていたせいだ。まさか電車の中でギターを弾くわけにはいかないので、音楽を聴くか本を読むかするしかない。それで、電車で長距離を移動するようなことがあれば、結局音楽を聴きながら読書をするようになった。

特に宿泊が伴う時となれば、神学書や長編小説などの「重い本」を1冊と、電車内で読めるような、比較的「軽い本」を1、2冊持っていくのが習慣となった。後者は文庫本が多く、大体は一度読んだことのある小説や随筆になる。その中でも、持ち出す頻度が高いのが本書である。

本書は、遠藤周作の随筆のうち、読書や本そのものに関連したものを再録した随筆集である。出版社による紹介文では以下の通りとなっている。

読書家としても知られる狐狸庵の、本をめぐる名エッセイ。「歴史」「紀行」「恋愛」「宗教」等多彩なジャンルから、読書の楽しみ方を描いた極上の一冊。青春時代より親しんだ、愛着のある本を紹介しつつ、とっておきの創作秘話も収録。「古本のたのしみ」「江戸時代の面白い本」「中年男の愛情と破局」等四十篇。

遠藤周作といえば軽妙なタッチの「狐狸庵」シリーズが有名だったが、本人は確か初老に入ってから、「もう狐狸庵なんて頃でもないだろう」と言って、自分では(随筆や対談であろうと)その名を使うのを拒んでいたと、どこかで読んだ。けれども世間に残っている遠藤の印象といえば「シリアスなキリスト教作家」と「狐狸庵」という2つの強烈な個性であり、中でも親しみやすい狐狸庵先生のイメージが優先されている。それで、結局は死後発行された再録中心の随筆集の多くには「狐狸庵」の名が付けられてしまった。本人はどう思っていることか……いや、そんなことは考えても仕方がない。

先述の通り本書の随筆はどれも再録であって、手に入れた時には既読のものばかりだった。それでも今なお外出する度に持っていくことが多いのは、ここに収められた随筆が、私の読書に大きな影響を及ぼした、大切なものばかりだったからである。たとえば、電車内では既読のものなどの「軽い本」を読み、熟読すべき「重い本」は読まないというのも、本書に収録されている一つ目の随筆「本不足の時代の悦び」に影響されたものだ。

出来れば読みかけた本は全部読み終ることをおすすめする(学術書は別である)。これは読書ルールの第一原則だ。そのためにも私は電車や汽車あるいは旅に持って行く本は、一度読んだ本か分厚くない本を持って行くことにしている。一度読んだ本ならスピードも早いし、また重要なところを再読するだけでもいい。分厚くない本なら半分位読めるだろう。半分読めばもう波というか調子というか、そういうものにのっているのである。(23-24頁)

あるいは、同じ随筆の中で、作者の恩師である佐藤朔の「速読する原書を三、丹念に読む原書を一」作るようにという教えが紹介されている。作者はこれを「外国語の小説を原書で味わうための最良の方法」として紹介しているが、私はまだまだ外国語の小説を読む習慣を持てていないので、工学や神学などに関する学術書を読むときに適用している。

何か自分の中でテーマを持っていて英語の神学書を読むときは、1冊、熟読する本を持つ。また、他に2、3冊、決して速読ではないが、論理展開を追う程度にさくさく読み進める文献を持つ。どれが熟読に値し、どれがそれ以外に値するかというのは、内容自体の優劣によることもあるにはあるが、多くの場合そうではない。既に発表されているようなことの整理が主な内容であったり、興味深くても記述が明瞭で論理展開が分かりやすいようなものであれば、「2、3冊」の部類に入れる。神学書を「1冊」と「2、3冊」に分類するときは、目次、序論、結論の順に読んで勘で振り分けていくのだが、学生時代に工学の文献を読む内からこの習慣を実践してきたこともあって、大体勘が当たるようになってきたと思う。

やはりこの「本不足の時代の悦び」という随筆の中で、最も影響を受けた読書法は、以下のものである。少しく長くなるが、全て引用したい。

 それは、夏休みなら夏休み、Aという作家なら作家の作品を全集でまず読むのである。その間は決してBとかCとかいう別の作家の本には手を出さない。手を出したくてもじっと我慢をする位の気持がなければだめである。
 そのかわり、Aの小説はもちろんのこと、その日記、書簡まで全て読む。一度でなく二度、三度読む。大体、一人の人間が全人生を賭けて書いたものを──つまりAの全人生を一度の読書でわかると思うのが大間違いだから、四度でも五度でも読み直す方がいい。
 それとあわせてAについて書かれた評論にも眼を通す。こうするとAの人生や事物や人間についての見方が、こちらの眼におおいかぶさってくる。つまりわれわれは、新しい眼鏡を持つことができるのだ。
 これがすめばどうすればよいか。
 これがすめば、Aが影響を受けた作家に手を拡げるのである。大体、一人の作家は自分だけの力、自分だけの個性で文学的開眼をしてはいない。彼は必ず同世代や先輩の作品に影響を受けているか、外国の文学、あるいは古典の中に、愛読書というものを持っているはずである。
 このAが影響を受けた本や古典は必ず、日記や書簡を見ればわかる筈だから、その本や古典を読んでみるのである。
 もちろん、ただ読むのではない、これらのAの愛読書がAにどう屈折され、どう受けとめられたかを、まず調べる。このとき、われわれはAという作家の個性ある本の読み方というものにふれることができるだろう。
 このようにして一人の作家、それからその作家が影響を受けた作家へと手を拡げてゆく読書法は今まで自分がやった「本とのつきあい方」で一番楽しく、一番効果のあったものだった。(14-16頁)

遠藤はおそらく、この読書法をフランソワ・モーリヤック、ジュリアン・グリーンなどのカトリック作家の著作で実践したのだろう。

この随筆を初めて読んだ時には、既に遠藤文学に首ったけだった。他にも芥川や三浦綾子を読んでいたから、厳密にこの読書法を実践できていたわけではない。しかし遠藤周作だけは手にし得る限りの作品・日記に全て目を通したし、文字通り何度も何度も繰り返し読んだ。だから正確に言えば、この随筆から影響を受けたというよりも、この随筆によって自らの読書法を肯定された気がしたのである。

今でもこの読書法による「癖」は残っていて、それは神学書を読むときにもついつい出てきてしまう。あるテーマに沿った神学書の中で気に入ったものがあると、テーマは違っても、つい同じ著者の本を揃え、どれにも目を通したくなる。読んでいく内に、その神学者の考え方というか、論理構成の癖のようなものが何となく見え始めて、彼・彼女に対する個人的な評価というものが出来上がっていく。

最近、この随筆を読み直してひとつ後悔しているのは、私の場合は一人の作家が「影響を受けた作家」にまでは「手を拡げてゆく」ことができなかったことだ。モーリヤックもグリーンも、中途半端にしか読めていない。しかし幸いなことに、今勉強していることは遠藤周作が文学のテーマとしたことと重なっている。だからこれを契機として、まずは遠藤の若き日の師である堀辰雄の全集を手に入れて、読み進めているところだ(本当のきっかけは、神田の古本屋で、驚くほどの安価で堀辰雄全集の全巻が売っていたからなのだが)。ゆくゆくは、モーリヤックやグリーンにまで手を伸ばしていきたいと思っている。

もうひとつ、作者のフランス留学時代の日記(『作家の日記』)に見られるように、テーマを絞って読書を拡げていくという方法もあるだろう。この随筆の中ではその読書法も紹介されている。前々回書いたエリクソンの『キリスト教神学』を読んだ頃からこの読書法を実践していたのだが、これをしっかり教わったのは、学生時代に大変お世話になった教員からだった。その先生は、「ある文献を読んだら、そこで挙げられている引用・参考文献は全て、……まあ時間的に無理なら、なるべく多く読みなさい。そうやって、読む文献をどんどん広げていきなさい」と仰っていた。そして、最近『作家の日記』を読み返してみて、この読書も実りあるものだと再認識している。

同じキリスト教作家では三浦綾子も、随筆集『わが青春に出会った本』で芥川の『奉教人の死』を語る中で、自身の読書法を紹介している。それは、「この世には様々な国があり、様々な作家がいる。だから、その作家の代表作だけを読んでいくという読み方」である。この読書法も、それはそれでありだと思う。三浦が言うように、「一人の作家の作品を、駄作であろうと秀作であろうと、とにかく徹底的に読む読み方に、決して劣らぬ読書法」かもしれない。それでも、ある作家の代表作を拾い読みしていくにしても、何かテーマを持っていれば、それだけで読書から得られるものが広がっていくのではないかと思う。少なくとも、私はそういう読書の方が楽しい。そして、そういう読書の楽しみ方は、私の場合は遠藤周作という一人の作家の全作品を読むことから教わったのである。

ここまで長々と書いて、結局本書の一つの随筆にしか触れられなかった。けれども、他にも、本書に収録されている随筆から受けた影響は数知れない。たとえば神田の古本屋街に足繁く通うようになったことなどは、本書にある「古本の話」や「古本のたのしみ」といった随筆を「ぐうたら」シリーズで読んで影響されたからだ。そこで、文学にしろ、哲学にしろ、神学にしろ、工学にしろ、とても有益な数々の本と「出逢う」ことができた……。