軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

私の読書(2)ドストエフスキー『悪霊』

ドストエフスキー『悪霊』上下巻、江川卓訳(新潮文庫、2004年改版)

前回、文学の勉強から学ぼうとしていることは、組織神学の「人間論」や「罪論」と関係しているのだと書いた。明治から昭和にかけての幾つかの文芸作品は、著者が信者ではないにしてもキリスト教とぶつかり、苦悩しながら生み出したということから、これらのテーマと関係してくる。また、20世紀のカトリック文学の内高い評価を得ているものも、基本的にはこれらのテーマが掘り下げられていると言うことができるだろう。

しかし、文学におけるキリスト教人間論・罪論というと、絶対に避けて通ることができないのは、この19世紀ロシアの大天才ドストエフスキーであり、中でも『悪霊』という小説である。

有名な話だが、『悪霊』は、1869年にロシアで起きた「ネチャーエフ事件」から着想を得て書かれた小説である。革命家セルゲイ・ネチャーエフは、自らを世界的革命団体のロシア代表であると偽って秘密結社を結成し、革命を試みた。しかし、組織内のある転向者を殺害したことで警察の捜査が入り、秘密結社は解体され、関係者は一斉摘発されてしまう。そのネチャーエフ自身は逮捕を免れ、スイスへ亡命したのであった。この事件の概要は、そのまま、『悪霊』の中で起きる事件の概要として用いられている。この小説の中では、ネチャーエフに該当するのが、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーという人物である。

文豪ドストエフスキーを初めて読んだのは、高校2、3年の頃だったろうか。誰かのエッセイ(多分、小林秀雄だった)を読んで興味を持ち、新潮文庫の『罪と罰』を手に取った。確か当時は遠藤から遡って漱石や芥川に熱中していた頃で、他に外国文学と言えばシャーロック・ホームズくらいしか手に取っていなかった私は、とにかく衝撃を受けた。まるで実際に生きているかのように矛盾し、ぐらつくラスコーリニコフの心理。推理小説の様子も呈する構成。そして、ラスコーリニコフがソーニャにより心の変革を遂げたときに行間から溢れ出す、あの光。

次に、『白痴』を読んだ。これも非常に印象に残っている。特に最後部、夜が白みはじめた部屋の中でロゴージンを介抱するムイシュキン公爵の美しい場面は、その後再読していないにもかかわらず、今でも思い描けるほどである。

そして、『悪霊』も……。これも文庫版を持っていると思っていたのだが、どうしても見当たらなかったので、この度新潮文庫版を新しく買ってきて、再読してみた。

さて、『悪霊』の背後にある実在の事件については先に述べたが、小説自体の詳しい(?)紹介については、新潮文庫版の裏表紙から引用したい。

1861年農奴解放令によっていっさいの旧価値が崩壊し、動揺と混乱を深める過渡期ロシア。青年たちは、無政府主義や無神論に走り秘密結社を組織してロシア社会の転覆を企てる。──聖書に、悪霊に憑かれた豚の群れが湖に飛び込んで溺死するという記述があるが、本書は、無神論的革命思想を悪霊に見たて、それに憑かれた人々とその破滅を、実在の事件をもとに描いたものである。(上巻裏表紙より)
 

ドストエフスキーは、組織の結束を図るため転向者を殺害した“ネチャーエフ事件”を素材に、組織を背後で動かす悪魔的超人スタヴローギンを創造した。悪徳と虚無の中にしか生きられずついには自ら命を絶つスタヴローギンは、世界文学が生んだ最も深刻な人間像であり“ロシア的”なものの悲劇性を結晶させた本書は、ドストエフスキーの思想的文学的探求の頂点に位置する大作である。(下巻裏表紙より)

下巻の謳い文句にあるように、『悪霊』といえば、一にも二にもスタヴローギン、ニコライ・スタヴローギンである。その名前は非常に有名であり、近代文学における「悪」の問題について様々な文学者を紐解いていけば、必ずいつかは、本書に収められている「スタヴローギンの告白」という章に到達する。

実際、この小説におけるニコライ・スタヴローギンの存在感は半端じゃない。彼に割かれた紙数自体は、実はそれほど多くはない。最序盤にも彼は登場しない。読みはじめると、主人公は革命家ピョートルの父、ステパン・ヴェルホーヴェンスキーであるように思われる。しかし、このニコライ・スタヴローギンが一旦登場してしまうと、その後は彼が登場しなくても、彼の存在感が作品中を支配してしまうのである。

高校生の時、「悪霊」とはスタヴローギン自身のことかと思っていた。しかし、それは違う。上巻の謳い文句にあるように本書は「悪霊」に憑かれた人々の破滅の物語であり、圧倒的作中人物であるニコライ・スタヴローギン自身は、決して「悪霊」ではない。むしろ彼は、「悪霊」に憑かれ破滅に向かう人間の方なのである。事実、彼は物語中盤まで、凄まじいカリスマ性を持った人物として描かれている。しかし、後半になると、その存在感はカリスマ性を放っているにも拘らず、この人間自身の魅力は減衰していくのである。最終的には、彼の自殺は、非常に惨めなものとして描写されている。

一方で、本書にも、『罪と罰』や『白痴』に見られた一条の光が差し込んでいる。それは、終盤における、真の主人公ステパン・ヴェルホーヴェンスキー氏の回心の描写である。彼は旧世代に属する自由主義者であり、ドストエフスキーの見立てでは、「無神論的革命思想」はステパン氏のような人々から発展して出現したものである。そこで著者は、ネチャーエフをモデルとしたピョートルを、実際にステパン氏の息子として設定した。物語中、ステパン氏はピョートルと対立し、軽蔑され、人生の全てを打ち壊されてしまう。

この哀れな自由主義者の回心は、何とも唐突なものにも思われる。しかし、キリスト者の目からすれば、伏線は充分すぎる程に張り巡らされていたことに気づくのではないだろうか。ピョートルとの対立。自らが「悪霊」たちを生み出した根源であるという自覚(罪の意識)。福音書売りソフィアとの出会い。そして福音書との再会と、病による意識喪失……。そして、明言されていないにも拘らず、それらの出来事ひとつひとつから、神がステパン・ヴェルホーヴェンスキーに差し伸べられた御手を見出すのではないだろうか。

物語の語り手は、ステパン氏の信仰告白が明晰な意識下から出たものか、それとも意識が朦朧とする中で出た戯言か、判断できないという見解を示している。その場に居合わせたワルワーラ夫人が信仰告白を理解できなかったことを示し、ステパン氏からの反論も記さない。これにより、ドストエフスキーの作中世界に相応しいバランスが保たれている。それまでのステパン氏の病状から、真実と言えるものではないと解することもできるのだ。しかし、キリスト者は、張り巡らされた伏線を神の摂理と理解し、ステパン氏の信仰告白は真実であると自然に解することができ、ステパン氏の告白に光を見出すだろう。非常に混沌とした物語の中で、それは一条の光である。ラスコーリニコフの回心。ムイシュキン公爵という「無条件に美しい人物」。やはりドストエフスキーは、その作中世界に光を差し込むのである。なぜなら、彼自身が世界に差し込んでいる光を信じていたからだ。

「悪霊」に憑かれた2人の主人公。その一方は救済され、一方は自滅していった。しかし、この「悪霊」とは何なのか。小説の終盤においては確かに「無神論的革命思想」のメタファーとして機能しているが、この象徴が表しているのはそれだけではない。ニコライ・スタヴローギンの内にある、悪に傾倒していく性質。ドストエフスキーは、この性質自体──キリスト教的に言えば「原罪」──を「悪霊」に見立てているのではないかと思われる。もしこれを「無神論的革命思想」としてしか解釈しないのなら、スタヴローギンを説明し切ることはできないだろう。

新潮文庫版では最後に置かれている「スタヴローギンの告白」は、著者が想定している「悪霊」が単なる「無神論的革命思想」ではないことを如実に表している。そこで描かれているのは、『人生の同伴者』における遠藤周作の言葉を借りれば、アウシュヴィッツにおいて「モーツァルトを聞いてて昼二千人もガス室へ送れるという人間の不気味な矛盾」、「素晴しい善人が同時に悪いこともできるという人間の心の矛盾」である。この矛盾したものを持つ人間に働きかけ、悪に傾倒させていくもの、それこそドストエフスキーが書こうとした「悪霊」なのではないだろうか。

そしてキリスト者の読者は、ここに至り、スタヴローギンの背後に本物の「悪霊」の存在を感じる。悪の諸力の源である、サタンの存在を感じざるを得ないのである。私たちキリスト者は、キリストの十字架と復活にあってサタンに勝利していることを知っている。しかし、私たちが『悪霊』を読むとき、サタンの実力というものをあまりに見くびりすぎているのではないか、それどころか無視してしまっているのではないか、と考えさせられるのである。そのサタンの存在と力という現実の直視がなければ、私たちのサタンへの勝利の確信は、土台のない、危ういものになってしまうかもしれない。

しかし、ドストエフスキーは「悪霊」の全面的勝利を許さなかった。というよりも、「悪霊」が最終的には敗北することを信じていた。だからこそ彼は、ステパン氏を通して、彼が信ずる一条の光を差し込んでみせたのである。(しかしそこには、一部のキリスト教作家が恩寵の光を安っぽく嘘っぽく提示してしまうような愚劣は一切見られない。1860年代以降のドストエフスキーは、彼の深淵な作中世界を保ったまま、驚くべき技量によりそれを成し遂げ続けた。)

キリスト者がこの小説を読むとき、その作中人物たちの心に種々の観念が溢れ出しているのと同様に、様々な想いが一気に呼び起こされてくるだろう。
神の支配と悪の存在の問題。
パウロヨハネが言う〈世〉に属する人間の悲惨。
だからこそ世の光となり、福音を宣べ伝えなければならないという意識。
しかしその悲惨が、罪の性質という形で、キリスト者の内にも存在しているということ。
そして、『悪霊』を読むキリスト者は、人間に潜む悪に働きかける悪の存在があるということを改めて直感させられる。同時に、そこにも神の御力が現れるのだということをも読み取ることができる。事実、椎名麟三や佐藤泰正のように、ドストエフスキーからキリスト教へ導かれた人は少なくない。