軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

2016年フルクテンバウム博士セミナーを受講して

 ここ数年、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ主催のアーノルド・G・フルクテンバウム博士のセミナーに参加し続けてきました。その博士のセミナーも、残念ながら今年が最後とのこと。寂しさを覚えながら、5月3、4日の東京会場でのセミナーに参加してきました。
 記念すべき最終回のテーマは「ディスペンセーショナリズムとは何か─体系的な聖書理解を求めて─」というものでした。セミナーの内容は膨大なものなので、とても要約して紹介することはできませんが*1、そこで考えたこと、感じたことを大雑把に書き留めておきたいと思います。

*1:セミナーの前半部分で扱ったディスペンセーション主義の定義や歴史については、本ブログのカテゴリ「ディスペンセーション主義について」内の、「ディスペンセーション主義とは何か(1)〜(8)」をご覧ください。

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旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その1)

 前回の前後編記事の中で、「新約聖書による旧約聖書の使用法(もしくは引用法)」の中でも、「新約聖書の著者たちは当時(第二神殿期)のユダヤ教における解釈法(もしくは引用法)を用いていた」という見解を取り扱いました。
 しかし、「新約聖書による旧約聖書の使用法」については、他にも多種多様な見解が提示されています。そこで、本記事では前回の補足として、「新約聖書による旧約聖書の使用法」についての諸見解の概観を試みたいと思います。これによって、福音主義神学におけるこのテーマに関する議論の整理のため、少しでもお役に立てれば幸いです。
 なお、各見解について問題点があるのですが、それは後日取り上げる予定です。

トピック

  • 新約聖書による旧約聖書の使用法」の7つの立場
    • 1. 単一の意味/多様な適用
    • 2. 人間の著者が込めた意味+神が込められた隠された意味
    • 3. 新約聖書の著者は当時のユダヤ教の解釈法を使用した
    • 4. 正典的解釈
    • 5. 霊感されたSensus Pleniorの適用(Inspired Sensus Plenior Application)
    • 6. 歴史的・釈義的&神学的・正典的解釈
    • 7. 新約聖書による旧約聖書の再解釈
  • Fruchtenbaumの立場
  • 結論
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旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(後編)

↓前編記事はこちらです。

balien.hatenablog.com

 福音主義では、「旧約聖書新約聖書に基づいて再解釈されるべきである」といった主張や、「新約聖書の啓示は旧約聖書のそれよりも優先されるべきだ」といった主張がなされることがあります。そういった聖書観をどう評価するかということを考えるためには、「新約聖書旧約聖書をどのように解釈しているのか or 引用しているのか」を観察することが有益です。
 この前後編記事では、「新約著者たちは当時のユダヤ教の解釈原則を使用した」という立場に絞って考察していくことを目的としています。前回は、「新約著者たちは字義的解釈に縛られていない当時のユダヤ教の解釈原則を用いていた」という主張を見ました。今回は、「新約著者たちは当時のユダヤ教における聖書引用法を用いていたが、旧約聖書の字義的解釈を重視していた」という主張を見ていきたいと思います。

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旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(前編)

 少々大げさなタイトルですが、これは福音主義神学においてよく議論されているテーマです。本記事では、この種の議論について、ごく一部ではありますが紹介させていただきます。

 Arnold G. FruchtenbaumのYeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective (Vol. 1)のp. 44までを読みました。
 本書のpp. 10-44は、イエスの生涯の解説に入る前の前置きとして「新約聖書旧約聖書をどのように引用しているのか」という項になっています。これは現在の福音主義神学でも大変重要な問題として扱われているテーマです。なぜなら、これについてどのように考えているかによって、本記事のタイトルで提示した問いへの答えが規定されてくるからです。
 そこで、このテーマについてブログ記事としてまとめてみようと考えました。ただ、これは複雑で多種多様な主張がなされているテーマであるため、全ての議論をまとめることはできません。ですので、ここでは「新約聖書と紀元1世紀(あるいは第二神殿期)のユダヤ教の聖書理解」という観点からの議論に絞ってまとめさせていただきました。

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「携挙」を考えるときの方法論

先日注文したArnold G. Fruchtenbaumの"Yeshua"が届きました。
前記事で「今回は参照文献が充実しているようだから買い」なんて言いましたが、ページをパラパラめくってみると、脚注の怒濤の情報量に笑ってしまいましたf^_^;
これから読むのが楽しみです。

さて、最近面白い論文集を読んでいます。Thomas IceとTimothy Demyが編集したWhen the Trumpet Sounds (Eugene, OR: Harvest House, 1995)という、終末論(特に携挙)に関する論文集です。
寄稿しているのは、「教会は患難時代が来る前に天に引き上げられ、空中で主と会うことになる」という患難期前携挙説に立つ学者たちです。
色々と興味深い論文ばかりなのですが、中でもJohn S. Feinberg*1の"Arguing About the Rapture: Who Must Prove What and How"という論文は面白かったです。

*1:Th.M、Ph.D、当時トリニティ神学校聖書神学・組織神学准教授、現在同校聖書神学・組織神学教授。

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