軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

2016年フルクテンバウム博士セミナーを受講して

 ここ数年、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ主催のアーノルド・G・フルクテンバウム博士のセミナーに参加し続けてきました。その博士のセミナーも、残念ながら今年が最後とのこと。寂しさを覚えながら、5月3、4日の東京会場でのセミナーに参加してきました。
 記念すべき最終回のテーマは「ディスペンセーショナリズムとは何か─体系的な聖書理解を求めて─」というものでした。セミナーの内容は膨大なものなので、とても要約して紹介することはできませんが*1、そこで考えたこと、感じたことを大雑把に書き留めておきたいと思います。

トピック

そもそもこういった学びは必要なのか

 今回のように、直接の御言葉ではなく神学のシステムを扱った学びについては、「こんなことを学んで何になるのか」という疑問を避けて通ることはできないと思います。そして、この疑問、私自身も通ったのでとてもよく分かるんです。
 聖書全巻が神の霊感を受けた御言葉であるのならば、そこに書いてあることは救済論だろうと終末論だろうとイスラエル論だろうと、知りたくなるはずなんですよね。どれも「神の言葉」に書いてあることなのですから。
 そこで、もし「聖書に書かれていることはすべて重要だ」と認識されている方が上記のような疑問を持たれた場合は、ある教理(たとえば、救いとか、教会とは何か、とか)について、適切な方法でご自分で調べてみることをおすすめしたいのです。適切な方法とは、第一に、その教理に関連する聖書箇所を熟読し、聖書研究から得られた自分の考えをまとめることです。(本当は、教理に関係なく、聖書を通して読んでおくことが重要なのですが。)
 第二に、その教理に関する他の神学者や牧師の考えと、自分の考えとを比較することです。そのとき、複数人の考え(もしくは複数の本に書かれていること)と比較するのが望ましいです。さらに言えば、全然違う立場の考えと比較するといいでしょう。
 第三に、なぜ自分の考えと他の人の結論との間に違いが生じているのかを検討し、自分なりの結論を導き出すことです。
 ここまでのプロセスをいくつかの教理に関して自分で経れば──ディスペンセーション主義にしろ契約神学にしろ他の神学にしろ──自分が立つ神学体系と他の神学体系とを学んで比較するということが聖書研究にとって大切である、ということが分かってくると思います。なぜなら、それによって、自分がどのような前提に立って聖書を読んでいるのか、という「聖書研究のパラダイム」が明らかにされるからです。ひたすら聖書を虚心坦懐に読むことと同時に、こうした学びもまた大切なのだと思います。

ディスペンセーション主義とは何なのか

 結局、ディスペンセーション主義とは何なのでしょう。
 神のご計画を、「ディスペンセーション」という区分を使って機械的に区切ってしまう立場のことでしょうか? しかし、神のご計画を時代で区分するという方法は、2世紀の教父エイレナイオスが既に提示しています*2
 また、非ディスペンセーション主義者であるジョージ・E・ラッド*3も「ディスペンセーション」や時代区分といった概念だけでディスペンセーション主義と非ディスペンセーション主義を区別することを否定しています。なぜなら、「ディスペンセーション」や時代区分といった概念は、すべての神学において見られるからです*4
 では、ディスペンセーション主義の特徴は「字義通りの解釈」にあるのでしょうか。確かにそうです。すべてのディスペンセーション主義者は「自分たちは聖書全体を一貫して字義通りに解釈している」と主張します。しかし、その「字義通りの解釈」が何なのかは、Ryrieが主張するほど単純な問題ではないのです。
 Ryrieは、ディスペンセーション主義の必須条件の一つは「一貫した字義通りの解釈」であると主張します*5。しかし、Feinbergは「Ryrie は問題を単純化しすぎている」と指摘しており、ディスペンセーション主義と非ディスペンセーション主義との違いは「非字義主義対字義主義という構図ではなく、何が字義的解釈を構成しているかについての理解の違いである」と述べています*6。非ディスペンセーション主義者のライトもまた、聖書を「字義的」に解釈することの必要性を主張しています*7。ライトがディスペンセーション主義者であるということではなく、ライトとディスペンセーション主義者との間で「何が字義的解釈を構成しているかについての理解の違い」があるということです。
 ディスペンセーション主義と非ディスペンセーション主義とを分ける最も明確な違いは、「イスラエルと教会の区別」なのだと思います。この区別をしているかどうかは、Ryrieによれば「人がディスペンセーション主義者かどうかを判断する最も基本的な神学的テスト」です*8。私も、Ryrieの言う通りだと思います。
 そしてこの区別は、旧新約聖書間の関係をどう見るか、という前提となる考えに由来しています。フルクテンバウム博士はセミナー中に「非ディスペンセーショナリストは、新約聖書から始めて、それを旧約聖書を解釈するために用いる」、「ディスペンセーショナリストは、旧約聖書をそれ自体で解釈する[旧約聖書本来の文脈、意味を重視する]」と教えていました*9
 以上の「旧約聖書本来の文脈・意味を重視する」という点と、それによってもたらされる「イスラエルと教会の区別」、これがディスペンセーション主義という「聖書解釈体系」*10本質なのだと思います。

 ちなみに、セミナーではMichael J. Vlachが提唱する「ディスペンセーショナリズムの6つの基本的要素」、そして「ディスペンセーショナリズムに関する神話と誤った教え」も取り上げられていました(Vlachは好きな神学者なので嬉しかった!)。ディスペンセーション主義に関するVlachの主張については、以下の記事をご参照ください。

balien.hatenablog.com

「ディスペンセーション」を説明するときの日本語の限界

 先に、「ディスペンセーション」という概念自体はディスペンセーション主義特有のものではない、ということを書きました。ディスペンセーション主義で特徴的なのは、この概念を非常に具体的に定義し、その解釈体系の中心に組み込んでいることだといえるでしょう。伝統的なディスペンセーション主義における「ディスペンセーション」の定義については、以前以下の記事でまとめたことがあります。

balien.hatenablog.com

 ただ、今回のセミナーで友人とも分かち合いながら感じたのは、「ディスペンセーションの定義は複雑で、あれを日本語で議論していると色々と綻びが出てくるのではないか」ということでした。ギリシャ語のoikonomiaを英語の「dispensation」に訳し、さらにその原語に含まれるニュアンスと、翻訳過程で釈義により導出された概念も含めて、日本語で議論する…ということは、ちょっと難しいな〜と。
 もし(私のように)ちょっと神学をかじった者同士で聖書論を語っていて、誰かが神と人との契約と関連した時代区分を指して「ディスペンセーション」と言ったら、多くの人は自動的に「あ、彼はディスペンセーション主義者だ」と感じると思います。でも、ただ「時代区分」というだけでは、dispensationの持つニュアンスを訳出しきれていません。それに、「経綸」といってもその単語自体が死語になっていますし、そもそも「経綸」自体がdispensationの訳語として相応しいのか、という問題も出てきます。この辺り、まさに日本語の限界を感じました…なにか、いい解決案はないでしょうか?f^_^;

単純化の問題

 セミナーの前半では、ディスペンセーションの定義、ディスペンセーション主義の本質、ディスペンセーション主義についての誤解、そしてディスペンセーション主義の歴史*11を教えていただきました。そこで学んだことは、「ある一部のディスペンセーション主義者の主張だけを取り上げて、そこからディスペンセーション主義という体系自体を単純化して論じてはならない」ということです。これは神学に限らずどんな学問にも通用することで、ある立場を論じるに当たってそのような態度を取ることは不誠実だといえるでしょう。

修正ディスペンセーション主義はしっかり学んだ。ではその他の立場については?

 ということで、セミナーでは、フルクテンバウム博士が立っており、また今日では伝統的ディスペンセーション主義(traditional dispensationalism)と言われる人々の大半を占めている「修正(もしくは改訂)ディスペンセーション主義(revised dispensationalism)」の本質的教えをしっかりと学びました。これはとても良いことで、ディスペンセーション主義を批判する方々にもお伝えしていきたいと思います。
 ……では、ディスペンセーション主義者であると自認する(私のような)人々は、これで十分なのでしょうか? ディスペンセーション主義を批判する方々に「ディスペンセーション主義の主張をもっと本質から知ってよ!」と言うならば、私たちは、非ディスペンセーション主義者──たとえば、2日目で詳細に取り上げられた契約神学──の主張ももっとよく知る必要があると思います。
 自分たちの考えを批判的に考察するという点でもこれは大事なことですが、もっと根本的に、立場の違う方々と対話するときに相手を理解する、という意味で必要なことです。相手の話に耳を傾けず、自分の主張を一方的に述べることは対話とは言いません。別に、たとえば契約神学者の考えを肯定しろ、ということではないのです。私自身、契約神学には賛同できません。ただ、まずは相手の話を聞け、それから議論しようではないか、ということです。

 契約神学について、セミナーでは1日目の最後と2日目の大半を使って学びました。そこで取り上げられたのは、ほとんどがCharles HodgeとLouis Berkhofの主張です。しかし、引用されているHodgeの著作は19世紀、Berkhofの著作も既に出版から約70年が経過しています。
 3年ほど前、非ディスペンセーション主義者の方と議論をしていたとき、私はHodgeの主張を引用して、契約神学的立場を批判しました。そのとき、相手の兄弟は「いや〜、あれはもう古いよ。(ミラード・)エリクソンですら古いでしょ!」と仰っていました。エリクソンが古いかどうかはともかく、私たちディスペンセーション主義者が最新の研究をふまえて議論をするのだとしたら、相手側の主張は数十年前の研究だけ取り上げる、ということはアンフェアだと思います。
 もっとも、今回のセミナーについては、既にディスペンセーション主義について学ぶだけで結構なボリュームになっていましたから、仕方がなかったとも思います。であれば、相手側の主張をさらに掘り下げていくのは、私たちの側にある役目だといえるでしょう。

 ここまで書いていて既に脚注込みで5000字超えなのでf^_^;、契約神学の詳細な主張についてはこれ以上取り上げられませんが……たとえば、HodgeやBerkhofについて触れたのなら、よりジョージ・ラッドに近い契約主義を保持しており、今日の保守的福音派に大きな影響力を持っているミラード・J・エリクソンの神学も学んでいきたいところです。
 あとは、確かに主流ではありませんが、「New Covenant Theology」*12陣営について見ていくも大切だと思います。

漸進的ディスペンセーション主義の問題

 さて、上では非ディスペンセーション主義の立場に触れましたが、もうひとつ問題となるのは、漸進的ディスペンセーション主義(progressive dispensationalism; 以下PD)の問題です。本セミナーでの結論は、「PDはもはやディスペンセーション主義ではない」ということでした。
 これもまた難しい問題ですね。セミナーにおけるこの結論は、Ryrieの結論からの引用です*13。なぜRyrieが「PDはディスペンセーション主義ではない」という結論に至ったのかについては、以下の記事で少し扱っています。

balien.hatenablog.com

 しかし、私個人としては、「PDはディスペンセーション主義ではない」と断言することはできません。
 確かに、PDの主張に全面的に同意することもできません。特に彼らが「キリストは既に天においてダビデの王座に就いておられる」と主張する点については、賛同することができません。しかし、「彼らはディスペンセーション主義者ではない」と判断することにも同意できません。

 先に、ディスペンセーション主義の本質は「旧約聖書本来の文脈・意味を重視する」という点と「イスラエルと教会の区別」にある、ということを見ました。  PDの提唱者であるCraig A. Blaising、Darrell L. Bock、そしてRobert L. Saucyは、イスラエル民族と教会とを明確に区別しています。この点について、PDと伝統的ディスペンセーション主義との間の違いは、教会に関する理解にあります。
 伝統的ディスペンセーション主義では、よく1コリ10:32からの引用と共に「イスラエル、異邦人、教会」と表現されるように、教会はイスラエルや異邦人と並ぶ「人類の第三の区分」とされることが多くあります。つまり、「教会」とは「人類学的分類(authropological category)」なのです。しかし、PDでは教会は「ペンテコステの日の出来事によって始まった、贖われた人々の救済論的共同体(soteriological community)」として見なされています*14
 このような違いはあるものの、Blaising and Bock、そしてSaucyはイスラエルと教会とを明確に区別し、教会が「新しいイスラエル」と呼ばれることには聖書的根拠はないと主張しています。しかも、教会の性質に関するPDの主張を一方的に退けることもできないように思えます。教会は確かに「ユダヤ人と異邦人」から構成されているのですが、教会が「ekklesia」である限り、彼らが「贖われた人々の共同体」であるということは否定できないでしょう。
 最も議論されているのは、「旧約聖書本来の文脈・意味を重視する」という点に関する、「PDは一貫した字義的解釈を行っているのか?」という問題です*15。「字義的解釈」についての問題は、それほど単純に解決できるものではないということは既に見ました。たとえばThomasは、Blaising and Bock、そしてSaucyの解釈学的枠組みを対象として、「彼らは一貫した歴史的文法的解釈法の適用を行っていない」と批判しています*16。しかし、BlaisingやBockの解釈学的立場は、歴史的文法的解釈の重要性を十分に強調しています*17。また、彼らは、新約聖書旧約聖書の意味を変更することを認めていません*18
 Blaising and Bockの主張やThomasの批判を見るに、伝統的ディスペンセーション主義とPDの解釈学的主張の違いは、旧新約聖書の関係をどう見ているかということに着地します。しかし、両者ともに「新約は旧約の意味を変更しない」ということで一致しているだけに、議論はさらに細かいところに及んでいくわけです。
 PDの解釈学を批判するThomas自身についても、彼が新約における旧約引用の問題を解釈学的に考察している中で混乱が見られます。彼は「意味の単一性と歴史的文法的解釈法の一貫した適用」を主張しているにも関わらず、新約著者による旧約解釈の中で「著者に意図されていない隠された意味」である「sensus plenior」を取り入れているなど、彼の立場は理解が非常に難しいです*19
 このように複雑な議論が展開されている解釈学の分野で、私はPDを「もはやディスペンセーション主義解釈法に則っていない」と判断することはできません。Bruce A. Bakerもまた、PDの主張を慎重に吟味した上で、「この神学的雑種にdispensationalという用語を冠することは可能である」という結論を下しています*20

 PDの「携挙論」についても、少し触れておきたいと思います。本セミナーのテキスト32頁には、彼らの携挙についての立場は「緩やかな患難期前携挙説」だと書かれています。Ryrieは、PDの文献において患難期前携挙説が十分に強調されていないことを批判しています*21
しかし、彼らが患難期前携挙説に立っているのは確かです*22。特にBlaisingが『Three Views on the Rapture』で展開している患難期前携挙論「A Case for the Pretribulation Rapture*23は、関連聖句の厳密な釈義から始まっている大変優れた論文だと思います。
 それ以前に、ディスペンセーション主義という解釈体系に対して患難期前携挙説は最もよく適合することは確かですが、それ自体はディスペンセーション主義者かどうかを決める試金石ではありません*24
 Ryrieやフルクテンバウム博士は、携挙論からPDについて何かしら判断を下す、ということまではしていませんでした*25。私たちもまた彼らのように、PDの提唱者であるBlaising and Bockが明確に患難期前携挙説を支持している限り、携挙論の観点からPDはディスペンセーション主義か否かを判断することは避けるべきでしょう。

 結局のところ、PDについても、非ディスペンセーション主義神学について述べたことと同じことが言えます。今回のセミナーで修正ディスペンセーション主義についてしっかりと学びました。もし今後PDに立つ方と議論をしたりする機会が考えられるなら、私たちはPDについてももっとよく理解しておいた方がいいと思います。

 最後に付け加えておくと、Vlachは「ディスペンセーショナリズムの6つの基本的要素」を論じるに当たって、各要素がBlaising and BockやSaucyらPDに立つ神学者の主張の中にも見られることを明らかにしています*26

会場の雰囲気──学ぶ側の姿勢

 最後に気になったのは、会場の雰囲気です。
 特に2日目、契約神学の主張がディスペンセーション主義といかに違うかが教えられたときに会場の中で笑いが起ったことは、とても残念でした。なんだか、「自分たちは真理を知っているが、彼ら(契約神学者)は知らないんだ」というような、上から目線の笑いのような──考えすぎなのかもしれませんが。
 でも、もし契約神学に立ちつつディスペンセーション主義に興味をもったためにセミナーに参加した方がいらっしゃったら、あの笑いをどう感じるでしょうか。もし私が契約神学のセミナーに参加して、ディスペンセーション主義の教理が語られたときに笑いが起きたら、ちょっと嫌です。というか、個人的にはそんなような経験をしてきたからこそ、どちらの考えも真面目に学んで吟味していこう、と考えたわけで……
 私自身としては、聖書研究の結果として正しいと判断したことは曲げず、しかし立場が違う方の主張にも耳を傾け、相手を理解することに努めながら対話を重ねていくことを心がけたいです。

 本題からは外れますが、ここで、非ディスペンセーション主義者やPDの学者たちの本や論文からも学ぶべきところは多くあるんだ、ということは強調しておいてもいいでしょう。確かにHodgeやBerkhofの本を読んでも、賛同できないところがあります。しかし、彼らの組織神学の方法論は素晴らしいものです。
 また、ミラード・エリクソンの『キリスト教神学』は、何か調べる必要が出たときに真っ先に開く本のひとつです。ジョージ・ラッドについても、彼の『新約聖書と批評学』は福音主義に立った聖書批評学を論じている有益な本で、何度読み返したかわかりません。
 N・T・ライトの数多くの著書や論文は、紀元1世紀のユダヤ的文脈からイエスやパウロを理解していこうとする素晴らしい働きによってもたらされたものです。スコット・マクナイトの『福音の再発見』は、聖書の物語(ナラティヴ)という観点から福音の中心的要素を説明してくれています。
 漸進的ディスペンセーション主義者であるSaucyの『The Case for Progressive Dispensationalism』は、イスラエル論、教会論、終末論(特に千年期前再臨説)を扱った名著のひとつだと思います。Blaisingが『Three Views on the Millennium and Beyond』で展開している千年期前再臨論、そして『Three Views on the Rapture』で展開している患難期前携挙論は、聖書釈義に裏打ちされた非常に強固な終末論といっていいと思います。

今後の課題は?

 今後、フルクテンバウム博士から教わってきたことを日本人クリスチャン自らの手と言葉によって発信していくのであれば、私たちは他の立場の方々と「対話」をしていく準備をしなければならないでしょう。
 過去20年間、私たちはフルクテンバウム博士を通して、聖書の学びの上で計り知れない恩恵を受けてきました。もし博士の働きがなかったら、私は福音的な信仰には導かれなかったかもしれません。
 しかし、自分たちが伝える側に立つならば、博士から教わったことを丸々鵜呑みにしてそのまま出す、というわけにはいかないのです。私たちは博士から教わったことをも吟味していくべきだと思います(その時の基準は、何よりも神学の研究対象たる聖書です)。

 このセミナーを受講して、ディスペンセーション主義のような「非置換神学」を、学術的にしっかりと主張していくことに重きを置いていきたいと改めて思わされました。このブログ自体もそのための取り組みのひとつなので、今後も楽しみつつ継続していきたいと思います。

*1:セミナーの前半部分で扱ったディスペンセーション主義の定義や歴史については、本ブログのカテゴリ「ディスペンセーション主義について」内の、「ディスペンセーション主義とは何か(1)〜(8)」をご覧ください。

*2:フスト・ゴンサレス『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳(教文館、2010年)85頁

*3:彼は、自分は契約神学に立っているということを明らかにしています。ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)9頁

*4:前掲書、8頁

*5:Charles C. Ryrie, Dispensationalism (Chicago: Moody Publishers, 1995) pp. 47; 89-109.

*6:John S. Feinberg, "System of Discontinuity," Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg, ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988) p. 73.

*7:N・T・ライト『クリスチャンであるとは─N・T・ライトによるキリスト教入門』上沼昌雄訳(あめんどう、2015年)270–79頁

*8:Ryrie, Dispensationalism, p. 46.

*9:セミナーテキスト、12–3頁

*10:私は、ディスペンセーション主義自体は神学体系というより聖書解釈体系というべきであると考えています。この点については拙稿「ディスペンセーション主義とは何か(4)ディスペンセーション主義の定義」および「ディスペンセーション主義の将来的課題」をご参照ください。

*11:以下の記事をご参照ください。

*12:Tom Wells and Fred Zaspel, New Covenant Theology: Description, Definition, Defense (Frederick, Md.: New Covenant Media, 2002); Steve Lehrer, New Covenant Theology: Question Answered (n.p.: Steve Lehrer, 2006)
 なお、「New Covenant Theology」に対するディスペンセーション主義側からの観察・考察については以下をご参照ください。Dennis M. Swanson, "Introduction to New Covenant Theology," The Master's Seminary Journal, 18(1) (Fall 2007) pp. 149-63; Michael J. Vlach, "New Covenant Theology Compared with Covenantalism," The Master's Seminary Journal, 18(1) (Fall 2007) pp. 201-19. なお、The Master's Seminary Journal(こちらで全号無料閲覧できます)のVol. 18, No. 2はNew Covenant Theology特集号となっています。

*13:Ryrie, Dispensationalism, pp. 189-212.

*14:Michael J. Vlach, Dispensationalism: Essential Beliefs and Common Myths, Kindle ed. (Los Angels: Theological Studies Press, 2008) locations 391-3; cf. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock, Progressive Dispensationalism (Grand Rapids, MI: 1993) pp. 49-51; Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-Dispensational Theology (Grand Rapids, MI: 1993) pp. 143-73.

*15:Ryrie, Dispensationalism, p. 206.

*16:Robert L. Thomas, "The Hermeneutics of Progressive Dispensationalism," Progressive Dispensationalism: An Analysis of the Movement and Deffense of Traditional Dispensationalism, Ron J. Bigalke Jr., ed. (Lanham, MD: University Press of America, 2005) pp. 1-15.

*17:Bock, "Single Meaning, Multiple Contexts," Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, Kenneth Berding and Jonathan Lunde, eds. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008) pp. 105-51; Blaising, "Israel and Hermeneutics," The People, the Land, and the Future of Israel: Israel and the Jewish People in the Plan of God, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2014) pp. 153-5.

*18:Blaising and Bock, Progressive Dispensationalism, pp. 103-4.

*19:詳しくは、拙稿「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その1)」中の「5. 霊感されたSensus Pleniorの適用(Inspired Sensus Plenior Application)」をご参照ください。

*20:Bruce A. Baker, "Is Progressive Dispensationalism Really Dispensational?," Progressive Dispensationalism by Bigalke, p. 367.

*21:Ryrie, Dispensationalism, 208-9

*22:Blaising and Bock, Progressive Dispensationalism, p. 317, n. 15.

*23:Blaising, "A Case for the Pretribulation Rapture," Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation, Alan Hultberg, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2010) 25-73.

*24:Paul D. Feinberg, "Dispensational Theology and the Rapture," Issues in Dispensationalism, Wesley R. Willis and John R. Master, eds (Chicago: Moody Press, 1994) p. 229.

*25:Brumettは、PDの文献では携挙のタイミングについて議論の余地が残されていること、また彼らの主張や神学体系が患難期後携挙説にも適合し得ることを指摘しています(John Brumett, "Does Progressive Dispensationalism Teach a Posttribulational Rapture?," Progressive Dispensationalism by Bigalke, pp. 304-5)。明言はされていませんが、Robert Gundryの患難期後携挙説との比較が大きく扱われているその論調からは、Brumettが「PDは最早ディスペンセーション主義ではない」という結論を出したがっているように思えます。

*26:Vlach, Dispensationalism, Ch. 2.