軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その2)

 前回、「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?」の前後編記事の補足として、「新約聖書による旧約聖書の使用法」についての諸見解を概観しました。   balien.hatenablog.com

 今回は、各見解の問題点について述べた後、改めて「後編」で紹介した筆者個人の考える「解釈学的枠組み」に触れたいと思います。

トピック

新約聖書による旧約聖書の使用法」の7つの立場

 「補足その1」では、福音主義神学における「新約聖書による旧約聖書の使用法」の立場を7つに分類するというVlachの手法*1に倣い、それらの立場を概観した。7つの立場は以下の通りである。

  1. 単一の意味/多様な適用(Single Meaning Approach)
  2. 人間の著者が込めた意味+神が込められた隠された意味(Sensus Plenior Approach)
  3. 新約聖書の著者は当時のユダヤ教の解釈法を使用した(Contemporary Judaism Approach)
  4. 正典的解釈(Canonical Approach)
  5. 霊感されたSensus Pleniorの適用(ISPA: Inspired Sensus Plenior Application)
  6. 歴史的・釈義的&神学的・正典的解釈(Eclectic Approach)
  7. 新約聖書による旧約聖書の再解釈(Reinterpretation Approach)

 前回概観した結果、各立場ともにオーバーラップする主張が多いことがわかった。また、解釈法としては同様な主張をしつつも細部において違いがある場合、あるいは明確に異なる解釈法を提示しつつ神学的結論を共有している場合があることがわかった。
 これらの結果から、どの立場が完全に正しいといえるか規範的判断を下すことは難しいものと考えられる。

各立場の問題点

 7つの各立場の妥当性について規範的判断を下すことは困難であるが、その例として、各立場における問題点を指摘してみたい。以下で取り上げる以外にも各立場を対象に様々な問題点が指摘されているが*2、それらの中でも筆者が特に重要であると考えている点に焦点を当ててみたい。

新約聖書旧約聖書の意味を変更し、新しい意味に置き換えたという主張の問題

 「新約の啓示によって、旧約の字義的意味(旧約著者の意図した意味)は変更され、新しい意味に置き換えられた」といった主張は、Contemporary Judaism ApproachやReinterpretation Approachに見られる。また、Sensus Plenior Approachでは新約により旧約の字義的意味が置換されたことは認められていないが、結論としては似ているところがある(sensus pleniorという概念の問題点は後述する)。
 この場合、旧約各書の著者や当時それらを受け取った読者たちは、どういった意味で神の「啓示」を受け取ったと言えるのだろうか。もし旧約著者たちの意図した意味を通して神がご自分を啓示されたのならば、それらの意味が今日もはや重要ではないとする主張をどのように説明するのか。
 Pinnockは、聖書のテキストには「過去の意味」と「将来の意味」があるとしている*3。また、Strimpleによれば、旧約の啓示は旧約時代の聖徒たちが理解できる言葉で新しい契約の祝福を表現したものであり、故に旧約預言は新約に基づいて再解釈される必要がある*4。彼らの理解に従えば、我々にとっては、旧約を受け取った当時の人々にとっての過去の意味よりも、新約の啓示をふまえた解釈により得られる「将来の意味」の方が重要であるということになる。
 しかし、旧約の啓示の中で与えられていた約束についてはどう説明すればよいのだろうか。Reinterpretation Approachで主張されるように、新しい啓示が古い啓示の補足だけではなく、変更や置換といった役割も含んでいるとしよう。そういった場合、古い啓示において与えられた約束の内容もまた変更/置換がなされてしまうのだろうか。
 だが、それらの(旧約の啓示における)約束を受け取った当時の人々、特に約束が記されているテキスト本来の著者/読者は、その字義的意味をもって約束を信じ、受け取ったはずである(cf. 創15:5-6)。なぜなら、「再解釈」によって得られる意味やsensus plenior(隠された意味)は、その概念の故に、旧約の著者/読者の認識の中には存在し得ないからである。では、旧約で与えられた約束が後に新しい啓示によって変更/置換がなされたのだとしたら、約束そのものと約束を与えた人々に対する神の誠実さはどのように保証されるのだろうか。
 以上の問題について、Contemporary Judaism ApproachやReinterpretation Approachが下した結論によっては説明が難しいものと考えられる。

教理は新約聖書の根拠が必要である/新約聖書旧約聖書より優先されるという主張の問題

 「新約は旧約に対する優越性を持っている。すなわち、教理を確立させるには新約の根拠が必要である」といった主張は、Canonical ApproachやReinterpretation Approachでよく見受けられる。特に新約の旧約に対する優越性については、Strimpleの見解を上記で紹介した通りである。この主張が抱えている問題は、前項で取り上げた課題の延長線上にある。
 新約の啓示は、旧約の啓示に対する「漸進的啓示」として与えられた*5。漸進的啓示という概念は、エリクソンによれば「後からなされた啓示が、先になされた啓示の上に、それを否定するのではなく、補足し、追加していく形で築かれるという考え方」である*6
 ここで、前項で指摘した問題をふまえ、旧約が本来の文脈・字義的意味において神の啓示であり、真理を含んでいると仮定する。そうであれば、教理については、逆に旧約から始め、それから新約の啓示もふまえて考えられるべきなのではないだろうか。この場合、新約に「優越性」は認められない。旧約も新約も同等に神の言葉であり、神の啓示たる「聖書」として受け取られるからである。
 この「新約の旧約に対する優越性」を認めるか否かは、前項の問題に対してどのように応答するかに依拠している。したがって、この主張は前項に付随する課題を内包しているといえるだろう。

人間の著者は意図していない隠された意味(sensus plenior)の問題

 Sensus pleniorについての問題は、新約の中で本来の文脈・字義的意味から外れた旧約引用が存在している限り、解決は難しい*7。それでも、この概念に対しては根強い反対意見が主張されていることも確かである。
 Kaiserは、「もしテキストの単語、文、段落の中で[釈義によって]その隠された意味が見出せないならば、それは『聖書』ではない……(テキストに立っているとはいえない)」と指摘している*8。この指摘は、「聖書のテキスト自体が神の啓示である」という前提に立ったものである*9
 これは最初の項目で指摘したことと似ているが、もしテキストの中に「隠されたより完全な意味」があるとしたら、旧約のテキストの著者/読者は、隠された意味を解き明かした新約の著者よりも劣った啓示を受け取ったということになるのだろうか。しかし、確かに知識量において時系列的な漸進性が認められるとはいえ、旧約の著者たちに啓示を与えたのも、新約の著者たちに啓示を与えたのも、同じ神である。それでは、この問題をどのように説明したらよいのだろうか。
 最後に、次の点を指摘したい。新約著者たちによって旧約に隠された「より完全な意味」が見出され、それが彼らの信仰の基盤であったとしたら、初代教会の人々は同胞のユダヤ人に対してどのように信仰を弁証したのだろうか*10。使徒たちが霊感の下で見出した「より完全な意味」がユダヤ人の目を開くほどのインパクトを持っていたということなのだろうか。確かに人──それがユダヤ人であれ異邦人であれ──が回心に導かれるためには聖霊の力が必要である。しかし、もし使徒たちの信仰の基盤が旧約本来の文脈や字義的意味でなければ、彼らがユダヤ人に対して説得力をもって伝道や議論ができたこと(cf. 使3:12-26; 7:2-53)の説明に困難が伴うものと考えられる。

ユダヤ教における解釈法の問題

 Contemporary Judaism Approachを主張するEnnsやLongeneckerは、第二神殿期のユダヤ教において、非文脈的(non-contextual)解釈や非字義的解釈が一般的に行われていたという。しかし、そのような解釈は本当に当時一般的であったのだろうか。
 パリサイ派ユダヤ教の厳格さは、聖書の字義的解釈によるものではなかったのか。クムラン文書やユダヤ教黙示文学の中に字義的解釈が多く見られることについて、Ennsのような立場ではどのように説明することができるのか。
 また、仮に古代ユダヤ教文献やラビ文献から、当時は非文脈的・非字義的解釈が主流だと明らかになったとしても、その文献の多くは、紀元70年以降のものである。したがって、それらの資料から第二神殿期のユダヤ教における一般的な解釈法を見出すことについては、様々な困難が伴ってくることが推測される。
 同様なことは、Fruchtenbaumが主張する「第二神殿期のユダヤ教におけるヘブル語聖書引用法」についても言うことができる。彼の主張における根拠はタルムードやミドラシュに基づいたものである。はたして、これらの引用法は第二神殿期まで遡ることができるものなのかどうか、慎重な検討を重ねていく必要があるだろう。

ISPAにおけるsensus pleniorの問題

 ISPAを主張するThomasは、旧約そのものに(歴史的文法的解釈からは導き出されない)sensus pleniorが隠されているという考えを否定している。
 一方で彼は、新約著者たちが自らの文脈と関連させて旧約聖句の文法的歴史的意味を超えた適用を行っている、という旧約使用法を指して「霊感されたsensus pleniorの適用(Inspired Sensus Plenior Application)」と呼んでいる*11。しかし、sensus pleniorは「隠されたより完全な意味」を指す用語であって、このように「適用」という概念を用いたときに適切な用語だといえるのだろうか。
 また、Thomasは、新約の文脈において旧約の啓示が新しい指示物(new referents)を示すようになった、とするBockのEclectic Approachを批判している*12。しかし、ISPAもまた、新約著者たちが新しい文脈において旧約の啓示の中にsensus pleniorを見出した、と主張している。ここでThomasがどのような意味でsensus pleniorという用語を使っているのかによっては、彼のBock(あるいは漸進的ディスペンセーション主義者)への批判は、そのまま彼自身に返ってきてしまうのではないだろうか。

Single Meaning Approachの問題

 この立場は今なお多くの支持者を集めているが、その分多くの攻撃にも晒されている。確かに、新約において旧約が引用されている箇所の中では、単純にこの立場で説明をするには困難な場合も多い(だからこそ、「補足その1」で紹介したように数多の立場が生み出されてきているのである)。
 また、「新約著者たちは旧約本来の意味や文脈を無視した引用は一切行っていない」という極端な前提を置いてしまうことは問題である。なぜならば、それによって、旧約著者が本来意図していなかったことを旧約テキストに読み込んでしまう危険性があるからである*13
 たとえば、ホセアはホセ11:1において意識的にメシアの赤児時代の預言をしていた、またエレミヤはエレ31:15において意識的にベツレヘムでの虐殺を預言していた、など、こういったことは明らかに読み込みである。さすがにこのような極端な例はSingle Meaning Approachの中でも中々見られない。しかし、BockやThomasは、Kaiserが詩篇や預言書の中に著者が意図していなかった情報を読み込んでしまっている、と批判している*14

Eclectic Approachの問題

 異なる2つの案の折衷案が提示されるとき、それぞれの案の長所が包含されていることが多い。しかしながら、折衷案というものは、論理的一貫性に欠けているという危険性も孕んでいる。ThomasやEnnsは、Bockの立場はまさに「論理的に矛盾している」と批判している*15。特にThomasについては、Bockの解釈法が「文法的・歴史的解釈法に反している」として強く批判している*16
 このEclectic Approachを更に展開していくならば、単なる「折衷案」に終わることなく、「緊張が高次の統合へと解消される」*17弁証法的な立場となる必要があるのではないだろうか。そのために、Eclectic Approachについては、より強固な論理的説明が求められている立場だということができるだろう。

結論

 各立場の主張と問題点を概観してみると、先に指摘したように、どの立場が絶対的に正しいかといえるか規範的な結論を下すことは困難であるといえるだろう。
 以上の問題点をふまえて、筆者が重要な解釈学的枠組みとして現段階で考えているのは、「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(後編)」の最後でも紹介した以下の4点である。

  1. 旧約聖書本来の文脈・意味と、新約聖書著者たちの記述とは調和している。
  2. 新約聖書を通して与えられた啓示によって、旧約聖書に記されている真理の詳細が明らかになった。
  3. さらに、新しい真理もまた明らかになった。
  4. 新約聖書に記されている新しい真理もまた、旧約聖書に記されている真理と矛盾するものではない。

 上記の4点に比較的近い立場は、Single Meaning Approach、ISPA、Eclectic Approachである。
 旧約本来の文脈・意味の重要性を主張している点では、Sensus Plenior Approachとも見解を共有している。しかし、上記の枠組みでは新約著者たちの記述は旧約の字義的意味と調和しているという結論に留めているため、Single Meaning Approachのようにsensus pleniorを否定する余地も残されている。
 また、考え方によっては、Canonical Approachにも近いように思える。しかし、この立場の神学者たちが主張する「旧約に対する新約の優越性」という主張については、1. の考えの故に同意することはできない。もし旧約本来の意味と新約の啓示とが調和していれば、そもそも優越性という概念を導入する必要はないものと考えられる。
 したがって、旧新約聖書全てが一貫して神に霊感された書物である、という福音主義の前提に立つならば、以上の4点から成る解釈学的枠組みにおいて聖書を釈義していくことが有益なのではないかと考えられる。
 以上の枠組みを前提とした場合、福音主義者が聖書を釈義し教理を体系化していく上では、まず旧約の本来の文脈・意味を探り*18、そこに啓示された真理から始める必要が認められる。その真理の詳細が新約で明らかにされた際には、それらの情報も含めて教理を立てていくことができる。また、新約において明らかになった新しい真理について釈義し教理を立てる上では、既に明らかにされている真理と矛盾しないよう注意する必要があるものと考えられる*19

*1:Michael J. Vlach, "New Testament Use of the Old Testamt: A Survey of Where the Debate Currently Stands," Theological Studies (2011)

*2:Ibid. Cf. Kenneth Berding, "An Analysis of Three Views on the New Testament Use of the Old Testament," Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, Kenneth Berding and Jonathan Lunde, eds. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008) 233-43; J.I. Packer, "Upholding the Unity of Scripture Today," Journal of the Evangelical Theological Society, 25(4) (December 1982) 409-14; Clark H. Pinnock, "Biblical Texts––Past and Future Meanings," Journal of the Evangelical Theological Society, 43(1) (March 2000) 71-81; Robert L. Thomas, "The Principle of Single Meaning," The Master's Seminary Journal, 12(1) (Spring 2001) 33-47

*3:Pinnock, "Biblical Texts".

*4:Robert B. Strimple, "Amillennialism," Three Views on the Millennium and Beyond, Darrell L. Bock, ed., Kindle ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1999) locations 1100-39

*5:バーナード・ラム『聖書解釈学概論』村瀬俊夫訳(聖書図書刊行会、1963年)168–71頁; ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第1巻、安黒務訳、宇田進監修(いのちのことば社、2003年)251–2頁

*6:同上

*7:解決の試みの例としては、「後編」の「新約著者たちはヘブル語聖書本来の意味や文脈を重視していた」を参照。

*8:Walter C. Kaiser Jr., "Single Meaning, Unified Referents: Accurate and Authoritative Citations of the Old Testament by the New Testament," Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, 49.

*9:Cf. John H. Sailhamer, The Pentateuch as Narrative: A Biblical-Theological Commentary (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992) 17.

*10:Vlach, "New Testament Use of the Old Testament," 5.

*11:Robert L. Thomas, "The New Testament Use of the Old Testament," The Master's Seminary Journal, 13(1) (Spring 2002) 79-98.

*12:Thomas, "The New Testament Use of the Old Testament," 91-3; Thomas, "The Hermeneutics of Progressive Dispensationalism," Progressive Dispensationalism: An Analysis of the Movement and Deffense of Traditional Dispensationalism, Ron J. Bigalke Jr., ed. (Lanham, MD: University Press of America, 2005) 1-15.

*13:Berding, "An Analysis of Three Views on the New Testament Use of the Old Testament," 241-2.

*14:Darrell L. Bock, "Response to Kaiser," Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, 93-5; Thomas, "The New Testament Use of the Old Testament," 90.

*15:Thomas, "The New Testament Use of the Old Testament," 92; Peter Enns, "Response to Bock," Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, 160.

*16:Thomas, "The New Testament Use of the Old Testament," 92.

*17:フスト・ゴンサレス『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳(教文館、2010年)230頁

*18:旧約本来の文脈・意味を読み解く上では、歴史的文法的解釈法を適用した聖書釈義が有用であるものと考えられる。詳しくは拙稿「歴史的文法的解釈法についての覚書(1)」および「同(2)」を参照のこと。なお、左記の「(2)」では、この解釈法を「歴史的言語的解釈法」と呼ぶことを提案している。

*19:本稿で紹介した解釈学的枠組みにおいて論理的問題点が挙げられるとすれば、特にこの「新約において明らかになった新しい真理から教理を立てる上では、旧約の本来的文脈・意味から得られた教理と矛盾しないようにする」という点についてであろう。この場合、新約の釈義に「新約の真理は旧約の本来的文脈・意味とは矛盾しない」という神学的前提が課せられることとなってしまい、福音主義では一般的に合意が得られている「新約の字義的解釈」という原則を崩してしまうおそれが指摘されるかもしれない。
 ここで、上記の問題と関連させて、改めて筆者による解釈学的枠組みの合理性について考えてみたい。ただし、以下で示す弁証については、今後さらに聖書自体の釈義と認識論的考察をもって検証される必要があることは留意いただきたい。
 「聖書テキスト自体が神の霊感を受けたものである」、「旧新約聖書が一冊で聖書という正典である」という2つの聖書論的前提を認めた場合、同じ神から霊感を受けて与えられた旧新約聖書の記述は矛盾なく一貫していると考えた方が良い。また、著者/読者を持つ「テキスト」自体が霊感を受けているとするなら、その「テキスト」の本来的意味において一貫性が認められる必要がある。そして、「神はご自分が与えられた約束を必ず果たされる」という神義論的前提を認めるならば、旧約で啓示された神の約束と新約で啓示された神の約束の間にもまた一貫性が認められてもよいはずである。したがって、キリスト教神学において教理を抽出する土台が聖書であるならば、解釈学的枠組みの全4項目、特に先に指摘した問題の要因である解釈学的枠組みの第4項目の合理性についても正当化され得るものと考えられる。