軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(後編)

↓前編記事はこちらです。

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 福音主義では、「旧約聖書新約聖書に基づいて再解釈されるべきである」といった主張や、「新約聖書の啓示は旧約聖書のそれよりも優先されるべきだ」といった主張がなされることがあります。そういった聖書観をどう評価するかということを考えるためには、「新約聖書旧約聖書をどのように解釈しているのか or 引用しているのか」を観察することが有益です。
 この前後編記事では、「新約著者たちは当時のユダヤ教の解釈原則を使用した」という立場に絞って考察していくことを目的としています。前回は、「新約著者たちは字義的解釈に縛られていない当時のユダヤ教の解釈原則を用いていた」という主張を見ました。今回は、「新約著者たちは当時のユダヤ教における聖書引用法を用いていたが、旧約聖書の字義的解釈を重視していた」という主張を見ていきたいと思います。

後編のトピック

前編のまとめ

 前回紹介したニューズナーとEnnsの研究では、新約著者たちは第二神殿期のユダヤ教の解釈法に基づいてヘブル語聖書(旧約聖書)を釈義したことが示されていた。その解釈法とは、旧約本来の文脈における意味を探ろうとする字義的解釈に縛られたものではなく、より自由な敷衍的解釈法であった。また、その解釈法はイエス・キリストの生涯と教え(もしくはキリストの死と復活)を中心に実践されていた。
 そして、特にEnnsは、現代のキリスト者の聖書解釈も、そのような「キリスト目的的」な新約著者たちの聖書釈義に倣うべきだと主張していることを見た。

新約聖書の著者たちとユダヤ教のヘブル語聖書「引用法」

 Fruchtenbaumもまた、新約著者たちの聖書理解と第二神殿期のユダヤ教の聖書理解との関連性を指摘している。しかし彼の場合は、第二神殿期のユダヤ教のヘブル語聖書「解釈法」というよりも、ヘブル語聖書「引用法」に着目している。
 何かのテキストを「引用」する時にもそのテキストの「解釈」は伴う。しかし、「引用法」を強調するということは、「解釈法」を強調することとは少し議論が異なってくる。事実、Fruchtenbaumの結論は先のニューズナーやEnnsの主張(特にEnnsのもの)とは異なるものである。
 彼によれば、新約における旧約引用は、ラビ文献(タルムード、ミドラシュ)などに見られる旧約引用と同様な方法で行われているという*1。それらの引用法は、後の中世時代にPaRDeSとよばれるようになった*2PaRDeSとは、Peshat(simple)、Remez(hintもしくはsuggestion)、Drash(explanationもしくはexposition)、Sod(secretもしくはhidden)といった4つの引用法の名前の頭文字をとったものである。これらの引用法が、新約著者たちによっても用いられているという。
 Fruchtenbaumは、新約著者たちの旧約引用法は以下の4項目に分類され、それぞれがParDeSの各項目に対応していると主張する*3

  1. 字義通りの預言+文字通りの成就(Literal Prophecy Plus Literal Fulfillment)
  2. 字義通り+予型(Literal Plus Typical)
  3. 字義通り+適用(Literal Plus Application)
  4. 要約(Summation)

字義通りの預言+文字通りの成就

 Fruchtenbaumは、この分類は、Pshat(simple)と対応しているという*4。これは呼び名の通り、「旧約聖書で預言されていたことが新約聖書において文字通りに成就したということを示すために、新約聖書旧約聖書を引用した」という引用法である*5。たとえば以下のような新約聖書の箇所が、この引用法が用いられている例として挙げられている。

  • マタ2:5-6におけるミカ5:2の引用;メシアがベツレヘムで生まれるという預言とその成就
  • マタ21:5におけるゼカ9:9の引用;メシアは子ろばに乗って来られるという預言とその成就
  • ヨハ12:38におけるイザ53:1の引用:メシアはイスラエルの民に拒絶されるという預言とその成就*6

 新約聖書における旧約聖書引用の多くが、この引用法に分類される*7

字義通り+予型

 この引用法は、Remez(hintもしくはsuggestion)と対応しているものとされている*8。この引用法では、「旧約聖書テキストの意味自体は否定されず、字義的に捉えられてる。しかし、「それは新約聖書に見られる対型(anti-type)の予型(type)として適用される」*9
 たとえば、マタ2:15では、ホセ11:1が引用されている。  

……これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。(マタ2:15)

 赤子であったイエスは、ヘロデ大王の手から逃れるためにエジプトに滞在していた。そして、ヘロデの死後、エジプトからイスラエルの地へ戻った。マタイはこれを、ホセ11:1の「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した」という記述の成就であったと記している。しかし、ホセ11:1は預言ではない。この箇所は、イスラエル民族の出エジプトという歴史的出来事(出4:22-23)を扱っているにすぎない。
 しかし、「比類なき神の子」であるメシアご自身がエジプトから連れ戻されたという出来事について、マタイは出エジプトをメシアの生涯の「予型」として認識した、とFruchtenbaumは主張する。

赤子イエスがエジプトから連れ戻されたとき、神は再びその子をエジプトから連れ出された。これが予型と対型である。予型は民族的子としてエジプトから連れ出されたイスラエルである。そして、対型は同じくエジプトから連れ出されたメシア的子である。*10

字義通り+適用

 これは、Drash(explanationもしくはexposition)と対応している引用法である。この引用法において、「新約著者は、彼らが直面した出来事に見られる[旧約聖書の内容との]一つの共通点の故に、旧約を引用し、適用した」*11。  

著者は[ヘブル語]聖書本来の文脈を──それが歴史的であれ預言的であれ──否定しているのではない。一つの共通点の故に、類似した出来事に適用したのである。*12

 この引用法では「新約の出来事に対する、旧約の適用による『説明』(explanation)もしくは『解説』(exposition)」が見られる*13。したがって、Fruchtenbaumはこの引用法をラビ文献のDrash引用法に対応しているものと考えているのである。
 たとえば、マタ2:17-18におけるエレ31:15の引用がこの使用法に分類されている*14

そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」(マタ2:17-18)

エレ31:15本来の文脈は、バビロン捕囚によって息子たちが連れ去られてしまったユダヤ人の母たちの嘆きについて語っているものである*15。これは、ヘロデ大王による男児虐殺というマタ2:17-18の出来事とは根本的に異なっており、予型とも考えにくい。しかし、「ユダヤ人の母たちが二度と見ることのない息子たちのために嘆き悲しんでいる」という類似性が見られる。「この一つの共通点の故に、新約聖書旧約聖書を適用として引用している」のである*16
 もうひとつの例は、使2:16-21におけるヨエ2:28-32の引用である*17

これは、預言者ヨエルによって語られた事です。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名をよぶ者は、みな救われる。」(使2:16-21)

 ヨエ2:28-32は、将来イスラエルが民族的に救われるときに聖霊が注がれるという、終末的かつ超自然的な出来事の預言である*18。これに対して、使2:16-21が記しているのは、信者の上に聖霊が注がれ、異言によって語り出したというペンテコステの日の出来事である。それぞれの文脈の中で捉える限り、両者は根本的に異なる出来事であるといえる。
 また、ヨエ2:28-32では「天と地」に超自然的現象が起こっているが、使徒2章ではヨエルが預言したような現象は見られない。
 さらに、ヨエルの預言の文脈はイスラエルの民の救いであり、その字義的意味は聖霊が「すべての」イスラエル人に注がれるというものである。それに対し、使徒2章で聖霊が注がれたのは一部のイスラエル人だけである。
 使2:16-21とヨエ2:28-32の間には以上のような相違が見られる。しかし、「聖霊が注がれたという類似点の故に、使2:16-21でペテロはヨエ2:28-32を[適用として]引用したのである」とFruchtenbaumは考えている*19

要約

 Fruchtenbaumは、これはSod(secretもしくはhidden)と対応している引用法である、と主張する*20。ここに分類される新約箇所では、正確には旧約の「引用」は含まれていない。しかし、「ヘブル語聖書を引用する代わりに、新約聖書の著者たちは[ヘブル語]聖書が特定の人物、状況、もしくは未来の出来事について教えていることを要約した」ことが、幾つかの新約箇所から推測される。
 例として、Fruchtenbaumはマタ2:23を挙げている。

そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる」と言われた事が成就するためであった。(マタ2:23)

 旧約聖書には「この方はナザレ人と呼ばれる」という預言は存在しない。ここでFruchtenbaumは、マタイが「預言者を通して……言われた事」ではなく「預言者たちを通して」と記している点に着目している。彼は、紀元1世紀当時ナザレの人々が蔑まれていたことから(cf. ヨハ1:45-46)、メシアが人々から蔑まれて拒否されるという預言者たちの教えの「要約」として、「ナザレ人」という表現が用いられたのだと主張している*21
 このような要約の例は、タルムードやミドラシュ・ラッバの中にも見られるという*22

新約著者たちはヘブル語聖書本来の意味や文脈を重視していた

 Fruchtenbaumは、ラビ文献においてラビたちはヘブル語聖書に書かれていることを「適用」したが、聖書の字義的意味や聖書に与えられた神の霊感を否定することはなかった、と考えている*23
 確かに、古代ユダヤ教における釈義者たちは、ヘブル語聖書の字義的意味を軽視していたわけではなかった。このことは、ニューズナーも指摘している通りである。
 先に、七十人訳聖書には訳者たちによる「自由」で「敷衍的」な翻訳が見出されるという指摘を見た。同時に、ニューズナーによれば、七十人訳聖書の中には「字義的」な翻訳も見出される*24

訳者たちにモデル[ヘブライ語聖書の全面的翻訳という前例]はなかった。そこで彼らは、彼らの翻訳がどのようなことを達成するかについて決定を下さなければならなかった。彼らの前にあった選択は彼らがヘブライ語聖書をどのように分類するかにかかっていた。彼らが受け取った形での聖書は──その中で訳者が「字義的」な翻訳を通して原文の正確な意味を伝達するように努める──法的な文書とみなされるべきであったのだろうか。また、それは「自由」もしくは敷衍的な翻訳の使用を許す、文学的なテキストとみなされるべきであったのだろうか。もし翻訳が、それを「霊感を受けた」ものとして主張するための根拠を与えるためであったならば、敷衍的翻訳の容認はすでに潜在的な障害であった。[モーセ]五書が法的でもありまた文学的でもあるという見解が、字義的でもありまた自由でもある翻訳という結果を見たのである*25

 七十人訳聖書の訳者たちは本当に上記の引用にあるような「法的でもありまた文学的でもある」という聖書観を持っていたのだろうか。また、仮にそうだとして、そのような聖書観を第二神殿期時代のユダヤ教教師たちも持っていたのかどうかということは、検証が必要である。しかし、彼らが聖書の霊感や字義的意味を重視していたことは確実にいえることだと考えられる*26
 また、FruchtenbaumはEnnsとは異なり、そもそも新約著者たちの旧約釈義が歴史的・文法的かつ字義的な釈義から外れているとは見ていない。たとえば引用法の第2のカテゴリー「字義的+予型」の考え方は、新約著者たちが旧約の本来の文脈における字義的意味を受け取り、そこにイエス・キリストの予型を見出したとするものである。
 Fruchtenbaumが「字義的+予型」という引用法に分類したマタ2:15におけるホセ11:1の引用について、Vlachは次のように述べている。

神は、ホセアが「子」について言及したことが将来のイエスにとって重要であると、明らかに前もって認識しておられた。そして、マタイは霊感のもとでこの関係を認識した。これは、ホセアが意図した以上の意味を神が込められたというsensus plenior[人間の著者が意図していない、真の著者である神が込められたより完全な意味*27]の例だと主張する者がいる。私は、ホセアが理解していなかった重要性を神が知っており、それを聖句に込められたことは認める。しかし、私はこれをsensus pleniorと呼ぶことをためらっている。神は、常に、旧約の内容の完全な重要性を、著者たちが認識していた以上に理解しておられると思う。だが、これをより完全な意味もしくは二重の意味と呼ぶことは適切だとは思えない。これについて、我々は「意味」と「重要性」の間に違いを認めるべきである。……マタイはホセ11:1の文脈を理解しており、イスラエルとイエスとの間の神的符合(divine correspondance)を指摘したのだと考えられる。これは非字義的解釈の例ではなく、符合もしくは予型を見出すために文脈的解釈(contextual hermeneutics)を用いた例である。*28

 Vlachによれば、新約著者たちが旧約の内容にイエスの予型を見出したことは、彼らが旧約テキストにさらに「意味」を付加させたものとして認識されるべきではない。そうではなく、新約著者たちは旧約の著者たちが気づいていなかった「重要性」を霊感の下で認識したのである。もしこの認識が正しければ、予型は歴史的文法的解釈(もしくは字義的解釈)と矛盾するものではない、ということになる。
 また、第3の引用法「字義的+適用」の考え方は、「旧約の字義的意味と新約著者たちが扱った出来事の間には類似性があり、それ故に旧約の字義的意味が適用された」というものである。したがって、Fruchtenbaumの考察が正しければ、これに分類される旧約引用箇所は、比喩的、象徴的、もしくは霊的解釈の根拠とすることはできない。
 以上のことから、Fruchtenbaumによれば、新約著者たちの旧約聖書「解釈」はあくまで旧約本来の文脈において字義的意味を見出そうとするものである。したがって、現代の我々が使徒たちの聖書解釈に倣うならば、実行するべきは聖書の字義的解釈だということになる。ましてや、旧約を新約によって再解釈したり、旧約の非字義的意味を強調する必要はない*29
 Fruchtenbaumは、Ennsと同様に第二神殿期のユダヤ教におけるヘブル語聖書理解に着目している。しかし、以上の点において、彼はEnnsとは根本的に異なる立場を取っているのである。

結論

 Fruchtenbaumのような神学者たちの研究からは、旧約聖書本来の(字義的)意味は今なお重要であるように思える。また、新約聖書によって旧約聖書のテキストに「意味」を付加させて解釈したり、「再解釈」する必要はないように思える。なぜなら、新約聖書の著者たちは旧約聖書本来の意味や文脈を重視していたからである。
 そうであれば、旧約聖書本来の意味と、新約聖書の著者たちの主張(新約聖書の意味)とは矛盾しないのではないかと考えられる。換言すれば、旧約聖書本来の意味や文脈から導き出される神学と、新約聖書から導き出される神学とは矛盾するものではなく、一貫性があるものなのではないだろうか。
 もちろん旧約聖書だけから完全な神学が導き出されるとは考えられない。なぜなら、神は時代を追って漸進的に啓示を与えられ、旧新約聖書66巻を持って今の私たちに与えようとご計画された啓示を完成されたからである。
 しかし、「聖書は霊感を受けた書物である」という前提に立つ福音主義神学の考え方からすれば、「新約著者たちは旧約本来の意味を変えた」とする必要はないのだと思う。むしろ、以下のように考える方が適切なのではないだろうか。

  1. 旧約本来の意味と、新約著者たちの記述とは調和している。
  2. 新約聖書を通して与えられた啓示によって、旧約聖書で明らかにされていた真理の詳細が明らかになった。
  3. さらに、新しい真理もまた明らかになった。
  4. この新しい真理もまた、旧約聖書で明らかにされていた真理と矛盾するものではない。

 たとえばメシアの来臨が初臨と再臨とに分かれているということ、また再臨に関する詳細な情報などは、2. に分類されるものと考えられる。また、その初臨と再臨との間に教会という存在が誕生するといったことについては、3.に分類されるものと考えられる*30
 そして、以上の1. 〜4. のような認識が適切なものであるならば、私たちは旧約聖書新約聖書ともに、テキストそのものに忠実な聖書研究に取り組んでいくべきだといえるだろう。

*1:Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of the Messiah from a Messianic Jewish Perspective, Vol. 1 (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2016) 10-44.

*2:Id., 12-3; Emil Schürer, A History of the Jewish People in the Time of Jesus Christ, 2nd Division, Vol. I (T. & T. Clark, 1910) 346-50.

*3:なお、同様な内容は、既に以下の著作で紹介されている。Fruchtenbaum, Messianic Christology: A Study of Old Testament Prophecy Concerning the First Coming of the Messiah (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 1998) 146-56; Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 842-5.
 なお、各項目名の訳語は、Messianic Christologyの邦訳である『メシア的キリスト論 旧約聖書のメシア預言で読み解くイエスの生涯』佐野剛史訳(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、電子書籍、2016年)の付録5「新約聖書旧約聖書をどのように引用しているか」によっている。ただし、第二項目の「type」については「型」ではなく「予型」という訳語に置き換えた。

*4:Fruchtenbaum, Yeshua, 13-21.

*5:Id., 13.

*6:なお、ラッドは「イエス時代のユダヤ人が、イザヤ五三章をメシヤ預言として解釈していたという証拠は存在しない」と主張している(ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳[いのちのことば社、2015年]20頁)。また、河村はユダヤ教におけるイザヤ53章の解釈の多様性を指摘している(河村兼二郎「ユダヤ教におけるイザヤ書53章の解釈史」『神学研究』第58号[関西学院大学神学研究会、2011年]9–23頁)。
 一方、Fruchtenbaumはミシュナやゲマラなどのラビ文献においてイザヤ53章がメシア的人物と結びつけられていたことを指摘している(Fruchtenbaum, Messianic Christology, 54)。彼によれば、現存する資料の中でこの箇所をメシアではなくイスラエル民族全体に関連付けて解釈した最初の人物は、紀元1050年ごろのラビ・ラシである。また、MetzgerもA.H. BarteltやV. Buksbazenらの研究を引用しながら、Fruchtenbaumの結論を支持している。Metzgerは、中世にイザヤ53章をメシアではなくイスラエル共同体に結びつける解釈が出現した歴史的背景として、十字軍による激しいユダヤ人迫害が発生したことを挙げている。John B. Metzger, Discovering the Mystery of the Unity of God (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2010) 427-8.

*7:Fruchtenbaum, Yeshua, 16.

*8:Id., 21-4.

*9:Id., 21.

*10:Ibid.; なお、ここで新約著者たちが旧約に「予型」を見出したことは、旧約の「隠された完全な意味」(sensus plenior)を見出したことになるのではないか、という疑問が生じてくる。Vlachは予型–対型の関係はsensus pleniorに当たらないものと主張する(Michael J. Vlach, "NT Use of OT Part 13: Matt 2:15/Hos 11:1 and Divine Correspondence between Israel and Jesus," Theological Studies)。これについては本論中にて後述する。

*11:Fruchtenbaum, Yeshua, 24.

*12:Ibid.

*13:Ibid.

*14:Id., 24-25.

*15:Ibid.

*16:Id., 25; cf. Charles H. Dyer, "Biblical Meaning of 'Fulfillment'," Issues in Dispensationalism, Wesley R. Willis and John R. Master, ed. (Chicago: Moody Press, 1994) 56-7.
 ただし、Bockはこの箇所を予型的成就と見なせる可能性があると指摘している。Darrell L. Bock, "Single Meaning, Multiple Contexts and Refferents: The New Testament's Legitimate, Accurate, and Multifaceted Use of the Old," Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, 120. また、Vlachは、エレ31:15が「[イスラエルに新しい契約が与えられるという]将来の希望という文脈における嘆き」であるということに着目している。そして、エレミヤが預言した新しい契約についての希望はイエスによってイスラエルの民にもたらされるものである。さらにマタ2:17-18では、イスラエルの歴史で起きたことがイエスの生涯でも起こったということから、イエスとイスラエルの民との類似性が見られる。以上のことからVlachは、マタ2:17-18とエレ31:15は「イスラエルとイエスとの間の神的符合(Divine Correspondence)」の例であるとしている。Michael J. Vlach, "NT Use of OT Part 14: Matt 2:17-18/Jer 31:15 and Divine Correspondence between Israel and Jesus," Theological Studies.

*17:Fruchtenbaum, Yeshua, 26-7.

*18:Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, Revised ed. (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2003) 431-2.

*19:Fruchtenbaum, Yeshua, 27. 同様な見解については、以下の文献も参照のこと。Paul D. Feinberg, “Hermeneutics of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testament, John S. Feinberg, ed. (Wheaton, IL: Crossway, 1988) 126-7; Vlach, Has the Church Replaced Israel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing, 2010) 117-9.

*20:Fruchtenbaum, Yeshua, 38-43

*21:以下も参照のこと。Bock, Jesus According to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels (Grand Rapids, MI: Baker, 2002) 72-3; Vlach, "NT Use of OT Part 15: Matt 2:23 and Summation of an OT Truth or Principle," Theological Studies.

*22:Fruchtenbaum, Yeshua, 40-2.

*23:Id., 11, 19.

*24:J・ニューズナー『ミドラシュとは何か』長窪専三訳(教文館、1994年)48–52頁

*25:前掲書、48頁

*26:Cf. Richard Longenecker, Biblical Exegesis in the Apostlic Period (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans, Publ. Co., 1975) 28-32.

*27:山﨑ランサム和彦「新約聖書における使徒的解釈学─現代福音主義への示唆─」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会、2014年)47頁

*28:Vlach, "NT Use of OT Part 13: Matt 2:15/Hos 11:1 and Divine Correspondence between Israel and Jesus."

*29:Fruchtenbaum, Yeshua, 43. Cf. Fruchtenbaum, Israelology, 203, 256-7; Feinberg, "Hermeneutics of Discontinuity," 124; Vlach, Has the Church Replaced Israel?, 91-107; Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-Dispensational Theology (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1993) 29-31.

*30:Carl B. Hoch Jr., "The New Man of Ephesians 2," Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, Craig A. Blaising and Darrel L. Bock, eds. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992), 98-126; Saucy, "Israel and the Church: A Case for Discontinuity," Continuity and Discontinuity, 239-59; Saucy, "The Church as the Mystery of God," Dispensationalism, Israel and the Church, 127-55.