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歴史的文法的解釈法についての覚書(2)

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

歴史的文法的解釈法についての覚書(2)|balien|note

 「終末論についての覚書」シリーズを一旦お休みし,「歴史的文法的解釈法」についての展望をまとめたノートをご紹介しています。
 今回のトピックは以下の通りです。

3.歴史的文法的解釈法への批判的応答

3−1.山﨑(2014)における批判的応答

 近年の福音主義神学界においては,そもそも「『著者によって意図された唯一の意味』を前提とする」歴史的文法的解釈法が唯一の「福音主義的解釈」法といえるのかという,この解釈法則そのものに対する批判的応答がなされている(山﨑 2014)。山﨑は,新約聖書の著者たちは旧約聖書の中に,人間的著者が意図していない,真の著者である神が込められたより完全な意味: sensus pleniorを認めていたと考える。これについて,「聖書の究極の著者は神である福音主義的聖書観からするならば,旧約聖書のあるテクストが人間の記者の意図を超えた意味を新約時代に持つように神が意図されたと考えることは決しておかしなことではない」(山﨑 2014:47)。すなわち,新約聖書の旧約釈義においては,歴史的文法的解釈法とそれを超えたテキストの意図を探ろうとする解釈法とが混在していることになる(cf. Enns 2008)。したがって,「歴史的・文法的方法に代表されるような解釈学的方法論が聖書解釈において規範的であるかどうか,という問に対して,新約聖書自体の答えは否定的であると思われ」,「歴史的・文法的釈義による先行テクスト[ここでは旧約聖書のテクスト]の解釈は,議論の出発点にしか過ぎない」(山﨑 2014:37-47)。
 山﨑によれば,我々は上記のような「使徒たちの解釈学的態度」から学ぶべきである。新約聖書における使徒的解釈学には,「歴史的・文法的方法も包含しつつ,より自由で豊かな」聖書解釈のモデルが提供されているのではないか。そのような解釈学を確立することで,歴史的文法的解釈法に代表されるような「学問的聖書解釈」と,「神が聖書を通して今日私に何を語られているのか」を問う「ディヴォーション的聖書解釈」の「分裂状態を解消する」ことができるのではないか(山﨑 2014:50-51 *1)。少なくとも山﨑の見立てによれば,「使徒たちは現代の福音主義教会のように,学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈を区別することをしていない」。
 一方で「より自由で豊かな」解釈学は,「ありとあらゆる主観的で恣意的な解釈を許容し,解釈学的無政府状態をもたらすのではないか」という危惧につながる。しかし,「使徒たちの聖書解釈も決してランダムな主観的解釈ではなかった」(山﨑 2014:52)。彼らは以下のような神学的枠組みの中で聖書釈義を行っていたと山﨑は主張する。

  1. 聖書の全体は神による人類救済を描いた首尾一貫した物語(ナラティヴ)であるという救済史的確信。
  2. 旧約聖書のナラティヴの全体は来るべきキリストを指し示しているというキリスト論的(キリスト目的的)確信。
  3. その旧約聖書の約束が,ナザレのイエスを通してすでに成就し,神の救済ドラマは最終的な神の国の完成に向かって最終段階に入ったという終末論的確信。
  4. このキリストを信じる者たちは終末を生きる神の民としての教会共同体に属し,聖霊の力を受け,教会を通して神と人とに仕える存在となったという教会論的・聖霊論的確信。

山﨑によれば,以上のような神学的枠組みを「意識することで,解釈の暴走をかなりの程度防ぐことができると思われる」(山﨑 2014:52)。

3−2.山﨑(2014)で提起された問題への応答

 ここでは,筆者なりに山﨑(2014)で提起された問題について考えてみたい。第一に,新約の著者たちがsensus pleniorを認めて旧約釈義を展開していたかどうかは,山﨑自身も認めるように議論が分かれている(山﨑 2014:38)。たとえば2.で触れたようにKaiserはsensus pleniorという概念を聖書釈義に適用することを認めていない(Kaiser 2008)。彼のようにこの概念を否定する神学者が危惧しているのは,sensus pleniorを認めることから導き出される〈旧約は新約を通して解釈される〉という考え方が,究極的には新約の啓示によって旧約著者の意図が全く無視されてしまうという極論にまで至る可能性があるということである。もしこのような極論に至れば,これは旧約のテキストが本来書かれた時点で霊感を受けていたということの否定にほかならないのではないだろうか,ということがKaiserのようなsensus plenior否定論者たちの懸念である。FeinbergもまたKaiserと同様な点を指摘し,新約著者たちは旧約に意味を付加させたのではなく旧約本来の文脈における単一の意味を「適用」したのだと考える(Feinberg 1988:77; Cf. Feinberg 1988:111-124; Thomas 2001; Vlach 2010:92-107; Fruchtenbaum 1992:294)。もしKaiserやFeinbergらの考えに立つならば,新約著者たちは,旧約著者たちの本来の意図は今や重要ではなくなったのだと主張しているわけではないことになる。
 第二に,上記の議論を踏まえて,使徒たちの聖書釈義に見られる「ディヴォーション的聖書解釈」を「解釈」と呼んでいいのかどうかということも吟味される必要があるだろう。「神が聖書を通して今日私に何を語られているのか」問うことを聖書の意味の「適用」ではなく「解釈」と捉えることは,聖書解釈学について考える上での概念上の仮定に過ぎないのだと意識する必要がある(Thomas 2001およびShealy 1997参照)。
 第三に,山﨑が例示する使徒たちの「神学的枠組み」を手放しに「使徒的」といえるかどうかは,福音主義者の間でも議論が分かれるところである。たとえば山﨑による「神学的枠組み」の3.,4.に見られるような事柄に関連して,福音主義神学者の間ではイスラエルという存在の理解を巡って見解の相違が生じている(Soulen 1996; 安黒 2014; cf. Blaising 2008; Vlach 2010)。この問題は,置換神学(supersessionism)と非置換神学(non-supersessionism)との間における使徒たちの「神学的枠組み」についての見解の相違であるとも言い換えることができる。非置換神学の考えでは,使徒たちの「神学的枠組み」において,「イスラエル民族の救いと回復」が終末論のナラティヴの中に不可欠の要素として組み込まれている(Blaising 2008; Vlach 2010:177-201)。このように神学的立場によって重要な部分で意見が分かれる「神学的枠組み」が使徒的であるのかどうかを評価するに当たって,まずは聖書本文からの検証によって判断することが必要である。
 最後に,歴史的文法的解釈法は,一般の信徒に対して「日々聖書を読む時に,該当箇所の歴史的・文法的釈義に基づいて聖書記者の意図した意味を確定し,それを現代の歴史的・文法的コンテクストに適用するといった手続きを踏んだ上で,自分に対する個人的な神の語りかけを受け取る」という作業を要求するものであることは確かである(山﨑 2014:51)。しかし,聖書のテキストが与えられた歴史的状況から読者自身の状況が大きく乖離している今,信者にとって聖書を歴史的文法的に釈義し,そこから得られた意味を「適用」する訓練が不必要だとは言えないだろう。一般的に聖書を読む上で,どこまでの聖書釈義の訓練が必要かは議論が分かれるところであると考えられる。だが,少なくともその必要性を認識させることは,「聖書の学びを行うこと」が義務として与えられている教会の役割であるとは言えないだろうか*2

3−3.津村(2014)における歴史的文法的解釈法の再定義

 山﨑の「新約聖書における使徒的解釈学」では,結果的に「『歴史的・文法的釈義』の不充分さ」が指摘されているといえる。津村(2014)の場合には,それ以前の問題として「『歴史』と『文法』の意味を再定義・再確認することが必要ではないか」という提案がなされている(津村 2014:11−12)。
 山﨑が指摘するように,歴史的文法的解釈法は「その基本的な方法論を,近代合理主義に源流を持つ歴史的・批判的方法に負って」おり,ある意味では「神学的に消毒された形の歴史的・批評的方法」であるといえる(山﨑 2014:49)。津村によれば,聖書学における歴史的批判的方法では,「テキストが成立するプロセスに注目」した「通時的」・「発生史的」アプローチでテキストの背後を究明していこうという意味で「歴史的」ということが捉えられてきた。しかし,聖書のテキストに「歴史的」にアプローチするより適切な方法は,まずテキストをあるがままの姿で解明するという「共時的」アプローチを取り,その後に著者や出来事(史実)に対して「時空的」(spatio-temporal)アプローチを取るという方法ではないだろうか,と津村は問うている*3
 また,津村は「文法的釈義」は「従来の,文を単位とした『文法』という概念」だけではなく,「文体論,修辞学,詩学をも含み得る,言語表現全体を意味し得る」「言語的釈義」と言い直したほうが良いのではないか,と提案している(津村 2014:12)。
 確かに,歴史的文法的釈義ではテキストの背後にある資料などを探る通時的(あるいは発生史的)分析がなされることもある。しかし,歴史的文法的解釈法について従来広く言われてきたところでは,この解釈法の「歴史的」分析においては著者がテキストを執筆した際の歴史的「状況」や文脈の究明に強調点が置かれている(ストット 1974:290-292; Sproul 2009:62-64)。したがって,歴史的文法的解釈法における「歴史的」の意味には,津村が言うところの「時空性」が以前より含まれていたと考えて良いのではないだろうか*4
 また,「文法的」という表現の中にも,現在の言語学でいうところの「文法」に限定されない,テキストの文学類型や構造まで包括した広い意味が含まれている(Sproul 2009:62-64)。しかし,「本来は『文法』は思想を表明する『文』の諸法則のことであったが,今や,『文法』の意味が狭められ」た現在の状況下では(津村 2014:12),確かに津村が提案するように「文法的」という表現は「言語的」(あるいは言語学的)と言い換えたほうが適切といえるのかもしれない。

参考文献

  • Blaising, Craig A., “The Future of Isarel as a Theological Question,” To the Jew First: The Case for Jewish Evangelism in Scripture and Hisotry, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds., (Grand Rapids, MI: Kregel Academic & Professional, 2008), pp. 102-121.
  • Enns, Peter, “Fuller Meaning, Single Goal: A Christotelic Approach to the New Testament Use of the Old Testament in Its First-Century Interpretive Environment,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, Jonathan Lunde, ed., (Grand Rapids, MI: Zondervan, 2008), pp. 167-217.
  • Feinberg, John S., “Systems of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, John S. Feinberg ed., (Wheaton, IL: Crossway, 1988), pp. 63-86.
  • Feinberg, Paul D., “Hermeneutics of Discontinuity,” Continuity and Discontinuity, pp. 109-128.
  • Fruchtenbaum, Arnold G., Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992)
  • Kaiser, Walter C., Jr., “Single Meaning, Unified Referents: Accurate and Authoritative Citations of the Old Testament by the New Testament,” Three Views on the New Testament Use of the Old Testament, pp. 45-89.
  • Pinnock, Clark H., “Biblical Texts—Past and Future Meanings,” Journal of the Evangelical Theological Society, 43(1), (March 2000), pp. 71-81.
  • Shealy, Brian A., “Redrawing the Line Between Hermeneutics and Applications,” The Master’s Seminary Journal, No. 8, Vol. 1, (Spring 1997), pp. 83-105.
  • Soulen, R. Kendall, The God of Israel and Christian Theology (Minneapolis, MN: Augsburg Fortress, 1996)
  • Sproul, R. C., Knowing Scripture, Revised ed. (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2009)
  • Thomas, Robert L., “The Principle of Single Meaning,” The Master’s Seminary Journal, Vol. 12, No. 1, (Spring 2001), pp. 33-47.
  • Vlach, Michael J., Has the Church Replaced Isarel?: A Theological Evaluation (Nashville, TN: B&H Publishing, 2010)
  • 安黒務「『福音主義イスラエル論』─神学的・社会学視点からの一考察─」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会,2014年)99–119頁
  • エリクソン,ミラード・J『キリスト教神学』第4巻,森谷正志訳,宇田進監修(いのちのことば社,2006年)
  • ケヴァン,アーネスト・F「聖書解釈の諸原則」宮村武夫訳『聖書論論集』メリル・C・テニー=カール・F・H・ヘンリー共編,舟喜順一訳編(聖書図書刊行会,1974年)465–488頁
  • ストット,ジョン・R・W『聖書理解のためのガイドブック』舟喜順一・岩井満共訳(聖書同盟,1974年)
  • 津村俊夫「福音主義の聖書解釈─その方法論の確立をめざして─」『福音主義神学』第17号(日本福音主義神学会,1986年)40–57頁
  • 津村「福音主義神学における聖書釈義」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会,2014年)5–32頁
  • 山﨑ランサム和彦「新約聖書における使徒的解釈学」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会,2014年)33–54頁

*1:歴史的文法的解釈法に拘束されない「より自由で豊かな」聖書解釈の必要性をテーマとしている最近の論文のひとつとして,Pinnock (2000)が挙げられる。

*2:エリクソンは「聖書の学びを行う」という教会の役割について次のように述べている。「教会には神の真理を聖書に啓示されたものとして教える務めがあるので,その啓示を理解することにおいて成長する責任があるということが示唆されている。つまり聖書の学びを行うことは教会の義務である。」(エリクソン 2006:245)

*3:津村(1986:40-57)もあわせて参照のこと。

*4:ケヴァンは聖書の字義的解釈について次のように述べている。「歴史的原則を適用するにあたって最も基礎的なところは,解釈者自身,著者の時代と場所に自らの立場を置くことである。」(ケヴァン 1974:483)