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ディスペンセーション主義とは何か?(8)ディスペンセーション主義の発展形

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

ディスペンセーション主義とは何か?(8) ディスペンセーション主義の発展形|balien|note

 前回ダービーによって体系化されて以降のディスペンセーション主義の発展の歴史を確認し、〈ディスペンセーション主義の歴史的変遷〉を概観することができました。
 この第8回では、蛇足的ではありますが前回の補足として、ディスペンセーション主義発展の歴史において登場した2つの発展形〈超ディスペンセーション主義〉と〈漸進的ディスペンセーション主義〉を簡単に紹介します。特に後者については、福音主義神学の文脈においてディスペンセーション主義を捉えていく上で、その存在と特質を知っておくことは意義あるものだと思います。

 さて、〈ディスペンセーション主義の歴史的変遷〉は今回をもって終了となります。これまでにディスペンセーション主義の定義および歴史的変遷を論じてきたことの意義は、「おわりに」と題した最終回で確認したいと考えています。

1.超ディスペンセーション主義

 超ディスペンセーション主義(ultra dispensationalism もしくは hyper dispensationalism)は、英国国教会の牧師であるエセルバート・W・ブリンガー(1837–1913)の教えに起源を持つ聖書解釈体系です。ブリンガーは罪人の未来に関して霊魂絶滅説*1を採用していたこと、また水の洗礼や聖餐(ユーカリスト)を否定する極端な立場を取っていたことで知られています。また、彼は「教会の存在はペンテコステの時ではなくパウロによって始まった」と主張しました(Ryrie 1995: 230)。現在の超ディスペンセーション主義者の多くは霊魂消滅説を採用してはいませんが、「教会の存在はペンテコステからではない」という教理においてはほとんど一致しており、それを根拠として彼らはブリンガーと同様に洗礼と聖餐の実行を拒否しています。
 ライリーはスコフィールドやシェーファーらの古典的ディスペンセーション主義とこの立場を対比して、超ディスペンセーション主義と古典的ディスペンセーション主義との間にある最も根本的な違いは「ペンテコステと教会時代の間にもうひとつのディスペンセーションを設けていること」であるとしています(Ryrie 1995: 233)。この立場では、聖書の字義的解釈やディスペンセーション区分の概念といった特徴は古典的ディスペンセーション主義と共有されています。しかしバプテスマの命令や教会、聖霊に関する聖書箇所の解釈が異なっているため、教会論も含めた多くの重要な教理に相違が見られます。したがって、超ディスペンセーション主義と古典的ディスペンセーション主義は基本的に異なる神学的立場であると考えてよいでしょう(Ryrie 1995: 240)。

2.漸進的ディスペンセーション主義

 漸進的ディスペンセーション主義(progressive dispensationalism)は、主にダレル・L・ボックやクレイグ・A・ブレイジングといった米国のダラス神学校の教授陣によって主張された聖書解釈体系です。ダラス神学校は、前回確認したように、シェーファーによって創設されたディスペンセーション主義に基づく神学教育を行うことを特徴とする神学校です。ボックやブレイジングらは彼ら自身の聖書解釈体系を「ディスペンセーション主義における『重要な修正』」として提唱しました(Ryrie 1995: 189-190)。彼らはディスペンセーション主義の発展の歴史を以下のように区分します(Ryrie 1995: 190)。

  1. ダービーからスコフィールド、またシェーファーの『Systematic Theology』に至るまでの古典的ディスペンセーション主義
  2. ウォルヴォードからペンティコスト、ライリーらを含む1950年代から1990年代までの改訂(もしくは修正)ディスペンセーション主義
  3. より発展した漸進的ディスペンセーション主義

なお、ライリーはこの歴史的区分についてダービーとスコフィールドの間には区分を設けるべきであると指摘しています。
 それでは、伝統的な立場(漸進的ディスペンセーション主義者が呼ぶところの古典的および改訂ディスペンセーション主義)と漸進的ディスペンセーション主義とでは何が異なっているのでしょうか。ライリーが提唱したディスペンセーション主義の「必須条件」と漸進的ディスペンセーション主義の信条を比較することによって、この聖書解釈体系の立場が明らかになります。ライリーによるディスペンセーション主義の必須条件は(1)イスラエルと教会の明確な区別、(2)歴史的文法的解釈法(による字義的解釈)の一貫した適用、(3)神の計画の目的を「神の栄光」とすることの3つでした。

漸進的ディスペンセーション主義は(1)キリストは既に天においてダビデの王座に就いておられ、今はダビデ契約とダビデ的王国の時代であり、教会はそれに併合されている、と教えている。(2)これは、新約聖書旧約聖書の啓示内容に変化や追加をもたらすことを許容する補完的聖書解釈に基づいたものである。(3)神の計画の目的は概してキリスト論的であり、歴史の中心と目的はキリストによる贖いである。(Ryrie 1995: 192)

こういった考えに基づいて、漸進的ディスペンセーション主義者はディスペンセーションを次のように区分します(Ryrie 1995: 195-196)。

  1. 父祖たちのディスペンセーション:創造からモーセ(シナイ)契約まで
  2. モーセのディスペンセーション:モーセ契約からメシアの昇天まで
  3. 教会のディスペンセーション:メシアの昇天から再臨まで
  4. シオンのディスペンセーション
    1. 千年王国
    2. 永遠の御国

 以上のことからわかるのは、漸進的ディスペンセーション主義は伝統的ディスペンセーション主義との相違が大きい聖書解釈体系である、ということです。第一に、伝統的な立場では、旧新約聖書に渡る字義的解釈(または歴史的文法的解釈)のゆえに、ダビデの王座と現在キリストが就いておられる大祭司の座である「神の右の座」とは区別されます*2。ダビデの王座とは将来のシオン(エルサレム)を中心とした神の王国(千年王国)でキリストが着座される王座である、と考えられています。また、現在の状態こそがキリストが統治するダビデ的王国の状態であり教会がそれに併合されているという考え方は、イスラエルと教会の明確な区分を緩めています*3
 第二に、漸進的ディスペンセーション主義で採用されている「補完的聖書解釈」は、伝統的立場が主張する歴史的文法的解釈の一貫した適用という解釈法則に反しているものと見なされ、拒否されています*4。この点については後述します。
 第三に、神の計画の目的の認識に関して伝統的立場との間に相違がみられます。

 このように、漸進的ディスペンセーション主義と伝統的ディスペンセーション主義のそれぞれの信条の間には大きな相違点が存在しています。したがって、これはもはやディスペンセーション主義とは呼べず契約神学的千年期前再臨主義的な立場なのではないかと、という分析が非ディスペンセーション主義者によってなされています(Ryrie 1995: 209)。しかし、たとえば契約神学的千年期前再臨主義者である安黒(2014:107)は、漸進的ディスペンセーション主義においても「『J.N. ダービーの遺伝子』とでも言うべき『民族としてのイスラエル』を軸にした理解は陰に陽に残されたままである」と主張しています*5。このことから、安黒は漸進的ディスペンセーション主義がなおも「ディスペンセーション主義聖書解釈法に由来する」立場であると考えていることがわかります(安黒 2014:107)。

 漸進的ディスペンセーション主義は、福音主義神学界において受容されました。特に契約神学の立場を取る者たちにとっては、彼らがディスペンセーション主義に歩み寄ることなく、ディスペンセーション主義の側から伝統的立場を離れ始めたということで高く評価されました(Ryrie 1995: 190)。安黒はV・S・ポイスレスの研究*6を引用し、彼自身、ディスペンセーション主義は「G.E. ラッドが手本として提示している契約主義プレミレニアリズムに安らぎの港を見出すことになる」と考えていることを明らかにしています(安黒 2014:107)。
 一方で、今日においてもライリー、ラヘイ*7、リヴェンタール、フルクテンバウムなど伝統的な立場を保持するディスペンセーション主義者は多くいます。彼らが漸進的ディスペンセーション主義を拒否する最も大きな理由は、「補完的聖書解釈」の名のもとで〈新約聖書のレンズを通した旧約聖書の(元の文脈から離れた)再解釈〉が行われていることでしょう。彼らは、これによってディスペンセーション主義が最大の特徴とする〈歴史的文法的解釈に基づく字義的解釈の聖書全体への適用〉が実質的に否定されることになる、と考えています*8。ライリーはこの点を指摘し、「補完的解釈に制限はあるのか。もしあるのだとしたら、誰によって、どのようにしてその制限は設けられるのか」と問うています(Ryrie 1995: 206)。

3.まとめ

 ここでは〈ディスペンセーション主義の歴史的変遷〉における最終項目として、伝統的ディスペンセーション主義の発展形である超ディスペンセーション主義および漸進的ディスペンセーション主義の性質について観察しました。
 漸進的ディスペンセーション主義については、場合によっては伝統的ディスペンセーション主義と契約神学的立場の折衷案的な(中途半端な)解釈体系と見做されてしまうこともあるでしょう。このシリーズでは十分に扱うことができませんでしたが、伝統的ディスペンセーション主義と契約神学的立場の激しい対立を背景として漸進的ディスペンセーション主義が登場したことは確かです。同じく英米の福音主義運動で受け入れられてきた神学的立場として、伝統的ディスペンセーション主義と契約神学的立場との間には共通点も多く存在しています。漸進的ディスペンセーション主義について観察していくことは、両者に見られる共通点と相違点を改めて確認することに繋がり、議論を交わしていく上でも重要なマテリアルとなることでしょう。

引用・参考文献

  1. Bock, Darrell L. and Mitch Glaser, ed., To the Jew First: The Case for Jewish Evangelism in Scripture and History (Grand Rapids: Kregel Academic & Professional, 2008)
  2. Fruchtenbaum, Arnold G., Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992)
  3. Id., Messianic Christology: A Study of Old Testament Prophecy Concerning the First Coming of the Messiah (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1998)
  4. Ice, Thomas D., “What is Progressive Dispensationalism?,” Article Archives (Liberty University, 2009), Paper 119.
  5. Leventhal, Barry R. “Dispensational Apologetics,” Ariel Ministries Magazine (San Antonio, TX: Ariel Ministries, Spring 2015), pp. 10-13.
  6. Ryrie, Charles C., Dispensationalism (Chicago: Moody Publishers, 1995)
  7. Showers, Renald E., There Really is a Difference: A Comparison of Covenant and Dispensational Theology (Bellmawr, NJ: Friends of Isarel Gospel Ministry, 1990)
  8. Vlach, Michael J., Has the Church Replaced Isarel?: A Theological Evaluation (Nashville, Tennessee: B&H Publishing, 2010)
  9. 安黒務「『福音主義イスラエル論』─神学的・社会学視点からの一考察─」『福音主義神学』第45号(日本福音主義神学会、2014年)99–119頁
  10. エリクソン、ミラード・J『キリスト教神学』全4巻、安黒務、伊藤淑美、森谷正志共訳、宇田進監修(いのちのことば社、2003–6年)

*1:霊魂絶滅説(annihilationism)にはいくつかのタイプがあるが、基本的には以下のような信条で知られている。「救われている人は終わることのない生命を持ち、救われていない人は消滅ないし絶滅する。……この立場は、すべての人が救いを受け、永遠の至福を受けるに値するわけではないと認めてはいるが、永遠の苦しみを受けるに値する者は一人もないと主張する。」(エリクソン 2006、4:452)エリクソンは「悪者の刑罰は永遠に続くと断言している[聖書]箇所がいくつかある」とし、「霊魂絶滅説のすべての形が、聖書の教えと矛盾するということ」を指摘している(エリクソン 2006、4:453。[]内は引用者による追記)。

*2:その主張と聖書的根拠についてはRyrie (1995: 196-200)、Fruchtenbaum (1998: 88-89)、Showers (1990: 89-90) を見よ。

*3:ライリーは、漸進的ディスペンセーション主義では「[神の計画における]2つの目的と2つの民という考え方は弱められなければならない」と考えられている、と見なしている(Ryrie 1995: 193)。

*4:旧約聖書の啓示に対する(啓示が与えられた時点での文脈から離れた)再解釈が解釈学的に許容され得ないことについては、Ryrie (1995: 36-39)が漸進的啓示の概念から論証を試みている。またFruchtenbaum (1993: 256-257)はラッドの「新約による旧約の再解釈」という主張に対する反論の中でそのテーマを扱っている。Vlach (2010: 91-103)は「再解釈」も含めた置換神学的立場で採用される解釈法則について観察し、根拠とされている聖書箇所についても吟味した上で反論を試みている。Leventhal (2015)は“Dispensational Apologetics”(ディスペンセーション主義弁証論)と題した論文で、やはり漸進的啓示の概念から「再解釈」という法則を拒否し、ディスペンセーション主義という聖書解釈体系の弁証を試みている。
 彼らに一貫して共通している主張は〈新約の著者たちが旧約の内容を適用したり、与えられた新しい啓示によって旧約の一部の命令(食物規定など)が変更・廃棄されたとしても、旧約の啓示が与えられた際の原意までが上書きされたことにはならない。したがって、原意を超えて旧約の歴史的文法的解釈を否定することに繋がる「再解釈」の法則は解釈学的に認められない〉というものである。

*5:漸進的ディスペンセーション主義の提唱者のひとりであるボック自身は、ユダヤ人伝道に関する論文集『To the Jew First: The Case for Jewish Evangelism in Scripture and History』(Grand Rapids: Kregel Academic & Professional, 2008)に収録されている“The Book of Acts and Jewish Evangelism: Three Approaches and One Common Thread”の中でユダヤ人伝道の重要性と必要性を主張している。彼はこの論文集の編集者のひとりでもあり、同書の執筆者の中にはリヴェンタールやフルクテンバウムら伝統的なディスペンセーション主義に立つ神学者・牧師が多く含まれている。
 また、同じく漸進的ディスペンセーション主義の提唱者であるブレイジングは、同書中の“The Future of Israel as a Theological Question”において「イスラエルの民族的回復」という概念には神学的妥当性があると主張している。

*6:Vern S. Poythress, Understanding Dispensationalists (New Jersey: Presbyterian and Reformed, 1987), p. 137.

*7:米国の牧師であるティム・ラヘイ(1926–)。小説『レフト・ビハインド』シリーズの著者のひとりとして知られる。

*8:脚注*4参照