私の読書(9)土木技師として歩んだ、あるクリスチャンの話
高崎哲郎『〈評伝〉技師 青山士 その精神の軌跡──万象ニ天意ヲ覚ル者ハ……』(鹿島出版会、2008年)
これまで読んだ本を取り上げて、その本にまつわる思い出を書き連ねていくこのシリーズ。2ヶ月以上ぶりの更新で取り上げたいのは、クリスチャンの土木技師として明治から昭和までを生きた、青山士(あきら)という人の評伝である。
- 作者: 高崎哲郎
- 出版社/メーカー: 鹿島出版会
- 発売日: 2008/11
- メディア: 単行本
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- はじめに
- 『評伝 技師 青山士』との出会い
- 青山士と内村鑑三
- クリスチャン技術者・廣井勇との出会い
- 青山士の業績
- 青山士の死
- おわりに
「字義通りの解釈」についてのあれこれ(前編)
これまで本ブログでは、何度か「字義的解釈」あるいは「字義通りの解釈」という言葉を使ってきました。基本的には、英語圏での聖書解釈論に関する議論で使われるliteral interpretationといった言葉の訳語として使いました。いわば、ある解釈法則に貼られたラベルですね。
先日、「『ディスペンセーション主義』という名前への違和感」という記事で 、「ディスペンセーション主義」というラベルに関する雑感を書きました。また、「『ヘブル的視点』についてのあれこれ」という全3回の記事では、「ヘブル的視点」というラベルを使う上で気をつけるべきことを書きました。
今回は、「字義通りの解釈」というラベルに関する記事になっております。特に、ディスペンセーション主義や「ヘブル的視点」について語られる際にセットで取り上げられることの多い、「字義通りの解釈」vs「比ゆ的解釈」(もしくは霊的解釈)という対立構造について着目していきたいと思います。
「『ディスペンセーション主義』という名前への違和感」および「『ヘブル的視点』についてのあれこれ」シリーズの補足編としてお読みいただければ幸いです。
トピック
- 「字義通りの解釈」とは何か?
- 字義通りの解釈vs比ゆ的解釈?
- 「後編」に向けて