軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

「字義通りの解釈」についてのあれこれ(前編)

これまで本ブログでは、何度か「字義的解釈」あるいは「字義通りの解釈」という言葉を使ってきました。基本的には、英語圏での聖書解釈論に関する議論で使われるliteral interpretationといった言葉の訳語として使いました。いわば、ある解釈法則に貼られたラベルですね。

先日、「『ディスペンセーション主義』という名前への違和感」という記事で 、「ディスペンセーション主義」というラベルに関する雑感を書きました。また、「『ヘブル的視点』についてのあれこれ」という全3回の記事では、「ヘブル的視点」というラベルを使う上で気をつけるべきことを書きました。

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今回は、「字義通りの解釈」というラベルに関する記事になっております。特に、ディスペンセーション主義や「ヘブル的視点」について語られる際にセットで取り上げられることの多い、「字義通りの解釈」vs「比ゆ的解釈」(もしくは霊的解釈)という対立構造について着目していきたいと思います。

「『ディスペンセーション主義』という名前への違和感」および「『ヘブル的視点』についてのあれこれ」シリーズの補足編としてお読みいただければ幸いです。

トピック

「字義通りの解釈」とは何か?

字義通りの解釈というコンセプトは、福音主義では広く認識されています。ただ、このコンセプトが何を意味しているかということが、よく問題にされています。

まず、このコンセプトが「何でないか」を申し上げておく必要があるでしょう。多くの場合、このコンセプトは「字面通りの解釈」という意味で使われているわけではありません。つまり、比ゆ表現などを否定して字句の表面的意味にのみこだわるようなコンセプトで使われているわけではありません。

聖書釈義を論じる上でこのコンセプトを重視し強調してきたグループのひとつは、ディスペンセーション主義と呼ばれる立場の人々です。ディスペンセーション主義を聖書理解の枠組みとして採用したデヴィッド・クーパーは、「字義通りの解釈」というコンセプトを聖書解釈における「黄金律」と呼び、その意味するところを次のように説明しています。

聖句から読み取れる普通の意味が理解可能なものであれば、他の意味を探そうとしてはならない。すなわち、どの言葉についても、その本来的、一般的、慣用的、字義的意味において捉えなければならない。ただし、直近の文脈や関連聖句、および自明な基本的事実と照らし合わせて、はっきりと別の意味が支持されている場合は、その限りではない。*1

また、20世紀を代表するディスペンセーション主義者のひとりであるチャールズ・ライリーは、「字義通りの解釈」というコンセプトについて次のように述べています。

これは、どのような言葉についても、それが文書、会話、思考のいずれかで展開されたものであれ、通常の語法によるものと同じ意味で捉えるという解釈法である。*2

以上のことから、クーパーやライリーが想定していた「字義通りの解釈」というコンセプトは、言葉の字面に拘るようなもの(字句拘泥主義)ではなく、あくまで「通常の語法にしたがって聖書本文を解釈する」というものであることがわかります。したがって、そこには当然比ゆ表現も含まれます*3。このことは、以前「『ヘブル的視点』についてのあれこれ(前編)」でも触れた通りです。

字義通りの解釈とは、散文は散文として、韻文は韻文として解釈するということです。著者が比ゆ的表現を採用していれば、その部分は比ゆとして解釈しますが、本来比ゆ的でないものまで象徴的、比ゆ的に解釈して、結果的に著者の意図とは異なった結論を導き出すことはしません。*4

また、「字義通りの解釈」については、その特徴から、聖書に書かれていることの歴史的背景と言語学的特徴を重視する解釈手法である「歴史的文法的解釈」と同じ意味で使われていることもあります。

〔字義通りの解釈〕は、時には歴史的文法的解釈とも呼ばれる。これは、各単語の意味が歴史的および文法的検討によって定められることによる。*5

すなわち、聖書本文について、著者がどのような意図でそれを書いた(あるいは語った、あるいは編集した)のか、また当時の読者たちはどのように理解したのか、それを紐解いていこうという試みが「字義通りの解釈」と表現されているのです。そのような意味では、この読み方はやはり「歴史的文法的解釈」と同じ(少なくとも、ニアリーイコール)であると考えられます。

こうした「字義通りの解釈」の理解は、福音主義における伝統的な聖書解釈論でもあります*6。1982年の「聖書解釈学に関するシカゴ声明」(The Chicago Statement on Biblical Hermeneutics)においても、次のように謳われています。

十五 聖書を文字通り(literal)の、もしくは普通(normal)の意味にしたがって解釈することの必要性を、われわれは主張する。文字通りの意味とは、文法的歴史的意味、すなわち記者が表現した意味である。文字通りの意味にしたがう解釈は、聖書本文に見られるあらゆる言い回し(figure of speech)と文学様式を考慮する。
 文字通りの意味が支持しない意味を聖書に帰するような研究方法の正当性を、われわれは否定する。*7

そして、聖書神学を展開する上で、テキストの本来的意味を明らかにしていくことは、どのようなパースペクティヴからの研究であるかに関わらず、必須の作業であるといえるでしょう*8

字義通りの解釈vs比ゆ的解釈?

これまでのことをふまえると、「字義通りの解釈」というコンセプトは、福音主義キリスト者の間で一般的に使われている適切な意味で捉えるならば、そう特別なものではありません。しかしながら、一部の福音主義者──多くの場合はディスペンセーション主義者によって、福音主義の解釈論として「字義通りの解釈」を選ぶか、それとも「比ゆ的解釈」を選ぶかという議論がなされてきたのも事実です。ここでの「比ゆ的解釈」とは、本来比ゆ的に捉えるべきではないテキストを比ゆとして捉える──すなわち、「字義通りの解釈」における許容範囲を超えた比ゆ的解釈を行うという意味の解釈法です。(多分、そういう意味で使われているのだと思います。)そして、こういった「比ゆ的解釈」は、「霊的解釈」と呼ばれていることもあります。

実際、20世紀半ばまで、ディスペンセーション主義者と非ディスペンセーション主義者による聖書解釈論を巡る論争は、「字義通りの解釈」vs「比ゆ的/霊的解釈」という単純な図式で繰り広げられてきました。先ほど申し上げた通り、特にディスペンセーション主義者の側から、非ディスペンセーション主義者は聖書の一部、特に預言について、比ゆ的/霊的解釈を施しているという批判がなされていました*9。そして、多くのディスペンセーション主義者は、「聖書全体に対する字義通りの解釈の一貫した適用」こそが自分たちの解釈論的特徴だと主張してきました。ライリーの例を見てみましょう。

もちろん、字義通りの解釈はディスペンセーション主義に特有なものではない。ほとんどの保守的福音主義者は、この解釈が意味するところについて同意するだろう。それでは、ディスペンセーション主義者と非ディスペンセーション主義者の間では、この解釈原則の使い方について何が異なっているというのだろうか。ディスペンセーション主義者が主張しているのは、普通の意味に従うという解釈原則を聖書全体の研究に対し、一貫して適用するということであり、ここに違いがある。*10

しかし、これまで見てきたことによると、福音主義者であれば「字義通りの解釈」を聖書全体に適用するのは当然なことであるように思えます。

聖書解釈学に関する研究や考察が進められる中で、ディスペンセーション主義の内部においても、「字義通りの解釈の一貫した適用」がはたして本当にこの立場に特有な解釈論なのか、議論がなされてきました。この議論は1980年代に活性化し、今もなお継続中です*11。ただ、今では(伝統的な立場であれ革新的な立場であれ)多くのディスペンセーション主義者の間で、ある点では共通認識が持たれています。それは、「字義通りの解釈」vs「比ゆ的/霊的解釈」という図式はあまりにも単純化されすぎたものであるということです。ジョン・ファインバーグは、非ディスペンセーション主義者もまた聖書の字義通りの解釈を主張しているということを指摘し、次のように述べています。

両者が異なっているのは字義主義か非字義主義かという点ではなく、何が字義的解釈を構成しているのかという点においてである。*12

N・T・ライトは「字義的解釈」と「比喩的解釈」という対立構造について、このような「二極化した言い方は混乱をもたらしてきたし、もたらしている」ということを指摘しています*13。もちろんライトはディスペンセーション主義者ではありません。しかし、彼の指摘は、ディスペンセーション主義者たち自身が、20世紀の終わりに自己吟味の上で繰り返し述べてきたことの裏側にある感情を、よく言い当てているのではないかと思います。

「後編」に向けて

今回は、「字義通りの解釈」は何を意味するコンセプトなのか?ということと、「字義通りの解釈」vs「比ゆ的/霊的解釈」という対立構造の問題について申し上げてきました。次回の後編では、この問題に一歩踏み込むと見えてくる「新約聖書における旧約聖書引用の問題」について取り上げたいと思います。

*1:David L. Cooper, “The Golden Rule of Interpretation─The Third Step in Interpreting Scripture,” accessed May 25, 2018.

*2:Charles C. Ryrie, Dispensationalism, revised and expanded ed. (Chicago: Moody, 2007), 91.

*3:Ibid.

*4:私たちの理念 | ハーベスト・タイム・ミニストリーズ;2018年5月25日閲覧。

*5:Ryrie, 91. 強調は原著者による。

*6:バーナード・ラム『聖書解釈学概論』村瀬俊夫訳(聖書図書刊行会、1963年)139–48頁。

*7:訳文は宇田進『福音主義キリスト教福音派』(いのちのことば社1984年)272頁による。

*8:Cf. Craig L. Blomberg, “The Historical–Critical/Grammatical View,” in Biblical Hermeneutics: Five Views, eds. Stanley E. Porter and Beth M. Stovell (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2012), 28; Craig A. Blaising, “Israel and Hermeneutics,” in The People, the Land, and the Future of Israel: Israel and the Jewish People in the Plan of God, eds. Darrell L. Bock and Mitch Glaser (Grand Rapids, MI: Kregel, 2014), 153–55.

*9:Cf. Ryrie, Dispensationalism Today (Chicago: Moody, 1965), 45–46; Thomas D. Ice, “Dispensational Hermeneutics,” in Issues in Dispensationalism, eds. Wesley R. Willis and John R. Master (Chicago: Moody, 1994), 30–33. ただし、公平性のために述べておくと、一部の福音主義者の中には、自らの解釈を「霊的 spiritual」なものと表現している者もいる。Cf. Kim Riddlebarger, A Case for Amillennialism: Understanding the End Times (Grand Rapids, MI: Baker, 2003), 37.

*10:Ryrie, Dispensationalism, 92–93. なお、Ryrieはディスペンセーション主義の必須条件(sine qua non)として、(1)イスラエルと教会の区別、(2)全ての聖句に対する字義通りの解釈、(3)世界に対する神の根本的な目的は神の栄光であるということを挙げている(Ibid., 45–48)。以前の私の「ディスペンセーション主義の定義」理解は、このRyrieの必須条件に基づいていたのだが、今は少し考えが変わってきている。Ryrieの必須条件に含まれている事柄は、(多少ニュアンスは変わったが)今でも自分の聖書理解に含まれている。しかし、Ryrieの必須条件がディスペンセーション主義の定義である、もしくはそれがディスペンセーション主義を他の神学立場から区別する決定的な要素であるとは考えていない。この辺りに関する雑感は、拙稿「『ディスペンセーション主義』という名前への違和感」を参照していただきたい。

*11:John S. Feinberg, “Systems of Discontinuity,” in Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg (Wheaton, IL: Crossway, 1988), 73–75; Blaising, “Dispensationalism: The Search for Definition,” in Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, eds. Blaising and Bock (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992), 30–33; Herbert W. Bateman IV, “Dispensationalism Yesterday and Today,” in Three Central Issues in Contemporary Dispensationalism: A Comparison of Traditional and Progressive Views, ed. Herbert W. Bateman IV (Grand Rapids, MI: Kregel, 1999), 36–43; Nathan D. Holsteen, “The Hermeneutic of Dispensationalism,” in Dispensationalism and the History of Redemption: A Developing and Diverse Tradition, eds. D. Jeffrey Bingham and Glenn R. Kreider (Chicago: Moody, 2015), 112–18.

*12:Feinberg, 74.

*13:N・T・ライト『クリスチャンであるとは──N・T・ライトによるキリスト教入門』上沼昌雄訳(あめんどう、2015年)278頁。