ヨハネの手紙第一 覚書き(10)1章8–10節
「聖書信仰」を考える(後編)
本記事は、以下の「『聖書信仰』を考える(前編)」の続きとなっています。
「前編」では最近いのちのことば社から出版された『聖書信仰と諸問題』を取り上げました。この「後編」では、私自身が最近「聖書信仰」について考えた3つのことを書き並べておきたいと思います。その「考えたこと」とは、第一に「土台としての聖書論」、第二に「聖書論と理論体系に関する問題」、そして「『聖書信仰』をめぐる議論について」であります。
先の記事に比べて内容が雑多になってしまい、また各項目についても大した結論が出せておりませんが、あくまで「雑感」ということでよろしくお願い致します。拙いながらも、読者の皆様が「聖書信仰」を考えていくきっかけ、問題提起としてお役に立てれば幸いです。
トピック
- 3.「聖書信仰」に関する雑感(その1):土台としての聖書論
- 4.「聖書信仰」に関する雑感(その2):聖書論と理論体系に関する問題
- 5.「聖書信仰」に関する雑感(その3):「聖書信仰」をめぐる議論について
「聖書信仰」を考える(前編)
あけましておめでとうございます。10月以来の投稿となってしまいました。ヨハネの手紙第一の釈義は着々と進めてますし、イスラエル論や携挙論なんかも少しずつ勉強を進めているのですが、何かとバタバタしておりまして、投稿できずにおりました。手軽なものも交えながら、なるべくコンスタントな投稿を心がけたいところではあるのですが……
この久々の記事かつ新年の初投稿記事では、最近出版された聖書神学舎教師会編『聖書信仰と諸問題』(いのちのことば社、2017年)のレビューも含めて、「聖書信仰」について最近考えたことを分かち合わせていただきたいと思います。
トピック
- 1.はじめに
- 聖書信仰
- 聖書の無謬性(infallibility)と無誤性(inerrancy)
- 保守的聖書信仰
- 2.『聖書信仰とその諸問題』についての簡易な書評
ヨハネの手紙第一 覚書き(9)1章5–7節
ヨハネの手紙第一 覚書き(8)補足:「いのちのことば」の意味について(その3)
ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)
前々回、前回から引き続き、「補足」として1:1の「いのちのことば」という表現の意味について取り上げています。前々回では「いのちのことば」=イエス・キリストご自身とする解釈を紹介しました。そこでは、第一ヨハネ1:1の「いのちのことば」は、ヨハネ1:1の「ことば」と同じ意味で捕らえられています。
そこで、前回ではヨハネ1:1の「ことば ho logos」の意味を(旧約聖書、旧約聖書外典、古代ユダヤ教文書などの情報もふまえて)考えていきました。要約は次の通りです。
- 「ことば」には神の発言と業が含まれている。
- 「ことば」は神の言葉であり、同時に人格的存在である。
- 「ことば」は神とは区別される存在であり、同時に神と同一視される存在である。
今回は「いのちのことば」に関する解釈の第二の立場(いのちのことば=イエス・キリストの福音のメッセージと考える)を紹介した後、第一の立場と第二の立場の中間の立場を取り上げます。その後、「いのちのことば」の解釈について私自身の結論を述べています。
トピック
- 補足 1:1「いのちのことば」の意味について(続き)
- D.第二の立場:「いのちのことば」はイエス・キリストの福音のメッセージを指している
- ストットの解釈
- Barkerの解釈
- E.第三の立場:中間的立場
- Westcottの解釈
- Vincentの解釈
- スミスの解釈
- F.結論
- D.第二の立場:「いのちのことば」はイエス・キリストの福音のメッセージを指している