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balienのブログ

キリスト教(神学)に関する雑感・情報などをメインにまとめていきたいと思います。

聖書における「イスラエル」の意味(5)ローマ人への手紙9:6について

イスラエル論 聖書研究

 前回では、新約聖書での「イスラエル」の登場箇所を示し、そのほとんどの箇所において旧約聖書の「イスラエル」の(民族的イスラエルという)基本的意味からは逸脱していない、ということを確認しました。

balien.hatenablog.com

ですが、その中には「いくつかの議論が分かれる箇所」が存在しています。今回はそのひとつとして、まずローマ人への手紙9:6について考察していきたいと思います。

トピック

3.新約聖書における「イスラエル」の意味(続き)

3–2.ローマ人への手紙9:6

 ローマ人への手紙9–11章は「イスラエル」が中心的テーマとなっているため、全体としてその意味するところについて議論が分かれているセクションである。それでも、「イスラエル」という用語自体の意味について議論が分かれている箇所は9:6および11:26であるといっていいだろう。
 ローマ人への手紙9:6には、次のように書かれている。

しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、

ここでは、9:6に見られる「イスラエル」の意味、特に「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではな」いという教えが意味するところについて考察を試みる。
 Robertsonは、9:6を「民族的イスラエルと(異邦人信者も含む)霊的イスラエルの区別」という意味で解釈している。彼によれば、「イスラエル(文字通りのユダヤ民族)から出る者がみな、イスラエル(霊的イスラエル)なのではない」*1。また、彼にとって「霊的イスラエル」とは、「まことのアブラハムの子孫」であるユダヤ人信者および異邦人信者の双方を含む教会を指していると思われる*2
 また、エリクソンは教会について論じる中で9:6に触れ、次のように述べている。

旧約聖書すなわち古い契約では神の民とはイスラエル民族であったが、新約では、国籍に基づいて神の民に含まれるのではない。「なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではな」いからである(ローマ9:6)。*3

すなわち、エリクソンは9:6の解釈についてRobertsonと同様な見解を採用しているものと考えられる。こうした9:6の解釈は、この箇所において、「イスラエル」の意味が「民族的イスラエル」から拡張されているという考えを示すものである。
 しかし、この箇所以外の「イスラエル」の圧倒的多数の用例は「民族的イスラエル」を示しているということも事実である。このように、ある術語の例外的用例あるいは新しい用例が見られる可能性を含む聖書箇所については、それが本当に例外的用例なのかどうか、また例外的であるとすればそれは術語自体の意味を変化させてしまうほどの場合にあたるのかどうか、慎重に検討することが必要である。
 該当箇所の前後の(最低限の)文脈もふまえて検証していくために、ローマ人への手紙9:3-13を以下に引用する。

3: もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
4: 彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。
5: 父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。
6: しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、
7: アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」のだからです。
8: すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです。
9: 約束のみことばはこうです。「私は来年の今ごろ来ます。そして、サラは男の子を生みます。」
10: このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによって身ごもったリベカのこともあります。
11: その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、
12: 「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。
13: 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。

 9:3-4では、「肉による同国人」=「イスラエル人」である。「肉による同国人」がキリストを信じていないがために、パウロは非常に悲しんでいる(9:2)。その不信仰な「肉による同国人」は、9:4では「イスラエル人」と呼ばれている。
 2.で論じた通り、イスラエル民族は神から選ばれた民である(申4:37)。しかも、彼らは特別に優秀な民族というわけではなく、ただ神が彼らを「愛されたから、また、……先祖たちに誓われた誓いを守られたから」選ばれた民である(申7:8)。さらに、神は彼らによって「地上の全ての民族」を祝福することを約束された(創28:14b;出19:5-6参照)。すなわち、神の恵みによって、祝福をもたらす器として選ばれた民族が不信仰に陥っている、ということが9:3-4の問題となっているのである。
 仮に民の不信仰が神から民が見捨てられたことを示しているとしたら、「神のみことば」すなわち神の約束/選びが「無効になった」ということになってしまう。もしそうだとしたら、ヤハウェは「恵み」の神ではなくなってしまう。さらに、自ら与えた約束/選びを全うしない神だということになってしまい、パウロが8章までにおいて展開した「神の義」を巡る議論は意味を失ってしまう。こうした問題が生じている中で、パウロは「神のみことばが無効になったわけではありません」と宣言している(ロマ9:6)。
 そして、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのでは」ないという言葉に続いて、議論は「神の選び」というテーマへと続いていく。このテーマにおいて取り上げられている題材は、アブラハムの子孫の中からのイサクとヤコブの選びである。
 「神の選び」は普遍的に適用され得るテーマであるが、それでも「イスラエルの不信仰は神の選びの失敗を示しているのか」という文脈の中で語られていることに注目すべきである。ここでは焦点はあくまで「イスラエル」に当てられており、Munckがいうように「9:22以降になるまで異邦人キリスト者への言及は見られない」*4
 まず、9:7-9において、アブラハムの肉体的子孫におけるイサクと(明言はされていないがおそらく)イシュマエルとの対比が語られている。ここでパウロは、「肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子ども[イサク]が子孫とみなされるのです」と教えている。イサク誕生の約束は、アブラハム契約の中で与えられていた(創15:4;17:19;18:14)。したがって、9:8における「神の子ども」や「約束の子ども」はアブラハム契約を継承する子孫を指しているものと考えられる*5
 次に、9:10-13ではイサクの息子たちであるヤコブとエサウの対比が語られている。彼らについても、アブラハム契約を継承するようヤハウェから選ばれたのはヤコブであった(創25:23;28:13-15)。そして、アブラハム契約はヤコブの子孫であるイスラエル民族に継承された(I歴16:15-22;ネヘ9:7-8)。
 問題は、以上のようなアブラハム契約を継承するよう選ばれたアブラハムの子孫への言及が、「イスラエルの不信仰は神の選びの失敗を示しているのか」という文脈の中でどのような意味を持つのか、ということである。
 まず、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない」という9:6の教えと「アブラハムの肉体的子孫がみな契約の継承者ではない」という教えとが並行されていることに着目したい。アブラハムの子孫の中での選び、イサクの子孫の中での選びという流れから考えると、9:6はヤコブの子孫(民族的イスラエル)の中での選びとして捉えた方が自然であるものと推測される。
 しかし、イスラエルは民族的にアブラハム契約を継承したのではなかったか。確かにその通りだが(ロマ9:4)、民族的イスラエルが肉体的にアブラハム契約の継承者に含まれているということは、その契約が彼らの上に全て成就するということを意味しない。なぜならば、肉体的にアブラハム契約の継承者であることは、彼らが霊的に救われているということと等しいわけではないからである。
 この議論では、アブラハム契約を継承するということと、継承者が霊的に救われているということの間における関係が前提となっている。アブラハム契約の中には、契約の継承者(アブラハム—イサク—ヤコブ—民族的イスラエル)を通して諸国が祝福されるという約束が含まれている(創22:16-18;26:4;28:14)*6。さらに、民族的イスラエルを通した諸国の祝福という概念は、旧約聖書を通して発展させられている*7詩篇102:13-15では、ヤハウェがシオン(エルサレム)をあわれむという「定めの時」に、諸国がヤハウェを恐れるようになるということが書かれている。

13: あなたは立ち上がり、
シオンをあわれんでくださいます。
今やいつくしみの時です。
定めの時が来たからです。
14: まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、
シオンのちりをいつくしみます。
15: こうして、国々は主の御名を恐れ、
地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。

また、エゼキエルは、ヤハウェが民族的イスラエルを約束の地に集めることで諸国にご自分を示されるということを言っている(エゼ39:27-29)。さらにそのときには、民族的イスラエル自身もヤハウェに立ち返るのだとされている。

27: わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、
28: 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。わたしは彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。
29: わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。──神である主の御告げ──

以上の聖句から、民族的イスラエルを通して諸国に祝福が与えられるという約束は、イスラエルが民族としてヤハウェを受け入れるということと密接に関係していることがわかる。すなわち、民族的イスラエルを通した諸国の祝福というアブラハム契約の約束が果たされるためには、イスラエルが民族として霊的に救われる必要がある。したがって、アブラハム契約に含まれる約束の一部は、必ずしも民族的イスラエルに属する(歴史を通した)全個人の上に成就するものではないということがわかる。
 ヤハウェアブラハムに与えられた契約以降の旧約聖書の文脈、またローマ人への手紙9:1-13の文脈をふまえると、「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではない」という「イスラエル」の中での区別は、民族的イスラエルにおける信者と不信者の区別であると考えられる。「[民族的]イスラエルから出る者がみな、[真の]イスラエルなのではなく」、民族的イスラエルにおける信仰者こそが真のイスラエルなのである、とパウロは教えているのではないだろうか*8。Murrayはこの区別について、「民族的イスラエルの中のイスラエル」という有名な表現を自身の注解書の中に残している*9。また、Sanday and Headlamは、パウロは他の箇所(ガラ6:16など)では教会に対して「イスラエル」という術語を適用していると主張するが、ローマ人への手紙9:6に関しては、これが民族的イスラエルにおける神の選びを教えているものだと認めている。

しかし、聖パウロはここで肉体的イスラエルと霊的イスラエル(すなわちキリスト者の教会)を区別しているわけではない。……彼が主張しているのは、ヤコブの全ての子孫がイスラエルの聖なる名のもとで神の約束の相続者となる必要はない、ということである。*10

 この民族的イスラエルの中の信仰者については、同じ章の中で「残された者」(ASV: the remnant)という用語とともに扱われている(9:27)。9:24-29は、神がユダヤ人の中からも、異邦人の中からも、「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たち」を召し出してくださった、ということが主題となっている*11。この中で9:25-26では異邦人からの召しについて、9:27-29ではイスラエルの中からの召しについて語られている。ここでパウロイザヤ書10:22を引用し、次のように述べている。

27: また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。
28: 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」

 さらに11:5でも、エリヤの時代の「残された者」に言及した後に、「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます」と教えている。直近の文脈として、パウロは11:1で「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません」と、イスラエルの民は選びの民ではなくなったとする問いに対して強い拒否表現を用いている。その根拠として「残された者」の存在が挙げられているということから、彼らはイスラエルの民の中から「恵みの選びによって残された者」であるということができる。
 したがって、民族的イスラエルの中の「選び」という概念、すなわち「民族的イスラエルの中で恵みの選びによって残された信仰者」という概念は、ローマ人への手紙9–11章において広く見られるものであり、「神の贖罪のプログラムにおけるユダヤ民族の位置」*12が論じられている中での中心的な概念であるといっても過言ではないだろう。よって、9:6についても、民族的イスラエルの中における「残された者」への言及として解釈する方が、これを「民族的イスラエルと霊的イスラエルの区別」と解釈するよりも妥当性が高いものと考えられる。

 なお、先のイザヤ書10:22のように、「イスラエル民族の中に残された真の信仰者」という概念は旧約聖書に根差したものである。特にパウロがローマ人への手紙11:3-4で引用した列王記第一9:14および18の内容について、Fruchtenbaumは「[イスラエルの残れる者という]教理を起こさせた歴史的出来事」であると述べている*13。しかし、「イスラエル」が「残された者」を指す狭義の術語として明確に用いられている例は、(上記のより妥当性の高い解釈が正しいならば)ローマ人への手紙9:6で初めて見られるものである。そういった意味で、ローマ人への手紙9:6は新約聖書における「イスラエル」の意味を検証する上で非常に重要な聖句だといえる。ただし、パウロは他の箇所で広義の「民族的イスラエル」を指す用語としても「イスラエル」を使い続けている。また狭義の術語についても、民族的イスラエルから逸脱した概念ではない、ということは強調しておく必要があるだろう。

*1:A. T. Robertson, “Romans 9:6,” Word Pictures of the New Testament, in PC Software e-Sword X.

*2:Ibid.

*3:ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第4巻、森谷正志訳、宇田進監修(いのちのことば社、2006年)223頁

*4:Johannes Munck, Christ and Israel: An Interpretation of Romans 9-11 (Philadelphia, PA: Fortress, 1967) 36.

*5:「神の子ども」(NRSV: the children of God)は、文脈によって複数の意味を持つ。その中には当然キリスト者も含まれているが(William Sanday and Arthur C. Headlam, A Critical and Exegetical Commentary of the Epistle to the Romans, The International Critical Commentary, 5th ed. (Edinburgh: T. & T. Clark, 1902) 242)、ロマ9:8においては、本文の観察により、その意味で捉えることは不自然であるものと考えられる。

*6:パウロはガラ3:16において、創22:18の「子孫」はキリストを指していると言っている。しかし、この教えによって、民族的イスラエルを通して諸国が祝福されるという約束が既にキリストによって完全に成就したものと結論づける必要はない。ヤコブに契約の継承が約束された創28:14では、「地上のすべての民族は、あなた[ヤコブ]と[ちりのように多くなった]あなたの子孫によって祝福される」と語られているからである。

*7:申4:5-6;26:18-19;詩67:1-2;102:13-15;イザ52:7-10;55:3-5;エゼ36:22-36;39:27参照。Cf. Michael G. Valaningham, “The Jewish People according to the Book of Romans,” The People, the Land, and the Future of Israel: Israel and the Jewish People in Plans of God, Darrell L. Bock and Mitch Glaser, eds. (Grand Rapids, MI: Kregel Publications, 2014), 120.

*8:Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 727-29; Robert L. Saucy, The Case for Progressive Dispensationalism: The Interface Between Dispensational & Non-Dispensational Theology (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1993) 195-97.

*9:John Murray, The Epistle to the Romans (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1997[1965]) 2:9.

*10:Sanday and Headlam, A Critical and Exegetical Commentary of the Epistle to the Romans, 240.

*11:なお、ラッドのようにロマ9:25-26を根拠として「イスラエル」は教会にも適用されるようになったと主張されることがある。9:24-29については、「イスラエル」と教会の関係について論じる際に詳しく取り扱う。

*12:ジョージ・エルドン・ラッド『新約聖書と批評学』榊原康夫・吉田隆共訳(いのちのことば社、2014年)178頁

*13:Fruchtenbaum, Israelology, 602-04.