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聖書における「イスラエル」の意味(6)ローマ人への手紙11:26について:その1

 前回の記事(↓)に続き、新約聖書における「イスラエル」の意味について議論が分かれている箇所について考察していきます。

balien.hatenablog.com

 今回から2、3回連続で、ローマ人への手紙11:26の「全イスラエルが救われる」という句の意味について考えてきます。
 トピックは以下の通りです。

3.新約聖書における「イスラエル」の意味(続き)

3–3.ローマ人への手紙11:26

 ローマ人への手紙9–11章において、「イスラエル」の意味に関する議論が分かれているもうひとつの箇所は11:26である。議論が分かれていることの一因は、この箇所が「将来」に関する預言的な内容を含んでいるからであろう。11:26は「イスラエル」という存在を終末論的に考察する上で非常に重要な聖句であるため、ここでも特に注意を払いながら考えていきたい。

25: 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
26: こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。
27: これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」
(ローマ人への手紙11:25-27)*1

3–3–1.幾つかの見解

 上記の引用聖句において太字で強調されている「イスラエルはみな救われる」あるいは「全イスラエルが救われる」(新共同訳)という記述の意味について、釈義者によって理解が異なっている。Robertsonは、ローマ人への手紙9:6が指しているのは「民族的イスラエルと霊的イスラエルの区別」であるという見解を示していた。また彼は、ガラテヤ人への手紙6:16の「神のイスラエル」という言葉も「霊的イスラエル」を指していると解釈している。それらの聖句の解釈を前提として、彼はローマ人への手紙11:26の「全イスラエルが救われる」という言葉に関する注解の中で次のように述べている。

パウロは[「全イスラエル」という言葉によって]何を言わんとしているのだろうか。直近の文脈によれば、……「全体として」のユダヤ民族について論じている。しかし、ロマ9:6(ガラ6:16)との調和を考えると、[9章以降続いてきた]主張の頂点として、彼[パウロ]の中には(ユダヤ人と異邦人の両者から成る)霊的イスラエルという考えがあるのかもしれない。いずれにせよ、我々はユダヤ人が全体として変えられるために努力し、祈るべきである。*2

すなわち、Robertsonは11:26の「全イスラエル」が単に民族的イスラエルだけを指しているのではなく、「霊的イスラエル」を指している可能性も認めているのである。ただし、彼はそれを断定はしておらず、また11:26は「ユダヤ人が全体として変えられるために努力し、祈るべきである」ということの根拠として考えているようだ。
 一方、Berkhofは、Robertsonが言うような「霊的イスラエル」の概念こそが9–11章の主題であると考えていながらも、11:26の「全イスラエル」自体は民族的イスラエルを指しているのだと主張している。彼の解釈によれば、神は「異邦人の完成(pleroma、これは選ばれた者の数[が満ちること]である)のなる時」まで、「新しい経綸全体[the entire new dispensation]に渡って、ユダヤ人の中から選ばれた残れる者を集め続けてくださる」。「こうして(このようにして)、全イスラエルイスラエルの中のpleroma、これは真のイスラエル人の数が満ちることを示す)が救われるのである。」*3つまり、今の時代(新しい経綸)の間も、神は民族的イスラエルの中から「残れる者」を選び出しておられる。そして、この「残れる者」の選定は「異邦人の完成のなる時」まで続く。「異邦人の完成がなる時」が来てイスラエルの「残れる者」の選定も完了したとき、それをもって歴史上の全ての選ばれたユダヤ人(真のイスラエル人)が救われることとなる。これが、「全イスラエルが救われる」ということの意味である。したがって、Berkhofは、「全イスラエル」とは救われて霊的イスラエルに加えられる歴史上の全ての「残れる者(remnant)」であると考えているのである*4
 「全イスラエル」についてBerkhofと同様な見解を示しているMerkleは、その根拠のひとつとして、パウロは9–11章において「イスラエル」の将来の状態ではなく現在の状態について論じているのだ、という点を挙げている*5。彼はまた、他のパウロ書簡と照らし合わせても、パウロ神学の中に「将来におけるイスラエルの特別な救いの時」に関する教えは見られないものと主張している*6
 しかし、MurrayはBerkhofやMerkleとは別の意味で「全イスラエル」が民族的イスラエルを指しているものと理解している。彼はこの箇所の「全イスラエル」を、将来において救われる民族的イスラエルとして解釈している。

書簡のこの部分における直近の文脈と全体的な文脈の両方から見て、この節における「イスラエル」に、[11]章におけるこの用語の文字通りの意味以外[の意味]を付することは、釈義的にあり得ないことは明らかである。ここでは[25節]でなされていたイスラエルと異邦人の対比が継続している。……パウロがここで語っていることは民族的イスラエルについてであり、イスラエルに異邦人が含まれるはずはない。*7

……パウロがこれらの旧約聖書の預言[11:26-27で引用されているイザヤ書59:20-21とエレミヤ書31:34]をイスラエル[民族]の再建への適用として引用していることに、疑いの余地はないだろう。*8

 これは、ラッドについても同様である。彼は、11:26を「生きているユダヤ人の大多数……[が]救われる日が訪れる」という内容の預言として解釈している*9。以下の記述におけるラッドの見解は、Merkleの「パウロイスラエルの将来について論じていない」という考えとは対照的である。

「全イスラエル」は全てのイスラエル人個人を意味する必要はなく、むしろ民族全体を意味している。……[パウロ]の関心は、ただイスラエルの将来という一点に向けられている。*10

 Fruchtenbaumは、「パウロは[ロマ11:25-26aにおいて]イスラエルの最終的回復を明確に宣言している」と述べている*11。彼は11:25-26を次のように時系列的に解釈している。「まず、部分的な盲目がイスラエルの上に降りかかった。次に、部分的盲目は、異邦人の完成が到来するまでの一時的なものである。第三に、異邦人の完成のなる時、全イスラエルは救われる。」*12

3–3–2.「全イスラエル」は民族的イスラエルから逸脱した概念か?

 ローマ人への手紙9–11章について、以下のことは3–1および3–2において既に確認した。

  1. 9:6と11:26以外では「イスラエル」は明確に民族的イスラエルを意味している。
  2. 9:6の「イスラエル」についても、民族的イスラエルという概念から逸脱した意味は含まれていないと考える方が、妥当性が高い。

したがって、9–11章全体における「イスラエル」の用例との調和からすると、11:26の「イスラエル」もまた民族的イスラエルを指しているものと考える方が妥当であるといえるだろう。
 直近の文脈を見てみると、11:25では「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであ[る]」と言われている。ここでは「イスラエル人」と「異邦人」が明確に使い分けられている。また、「イスラエル人の一部がかたくなになった」という表現は、民族的イスラエルの不信仰がセクションを通してテーマとなっていることと調和している。したがって、11:25からの繋がりを考えると、11:26の「全イスラエル」もまた民族的イスラエルとして捉える方が自然なものと考えられる。この点を指摘して、Sanday and Headlamは次のように述べている。

全体の文脈は、[全イスラエルpās Israēl]が歴史における実際のイスラエルを指すことを示している。このことは、25節の[異邦人の完成;to plērōma tōn ethnōn]との比較や、同じ節のイスラエルという術語の使われ方、また17–24節における主張から見ても極めて明白である。*13

 また、パウロは「全イスラエルが救われる」ということを支持する旧約聖書の預言としてイザヤ書59:20-21を引用している。ここで彼が「全イスラエル」と「[不敬虔が取り払われた]ヤコブ」を同一視していることはほぼ間違いないだろう。イザヤ書では頻繁に民族的イスラエルが「ヤコブ」と呼ばれていることから*14、この「ヤコブ」もまた民族的イスラエルを指しているものと考えられる。さらに、11:27ではその「ヤコブ」を指して「これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と言われている*15。したがって、11:26-27では「全イスラエル」=「ヤコブ」=「彼ら」であると考えられ*16、この繋がりからも、「全イスラエル」は民族的イスラエルを指しているという解釈が可能である。
 続く11:28では新改訳第三版も含め多くの翻訳で「彼ら」という代名詞が付け加えられているが*17、原文ではそのような代名詞は使われていない。このことは、Waymeyerが言うように、11:28が直前の11:27と内容的に連続していることを示している。

28節で付加された「彼ら」に先立つ者は27節の「彼ら」(autois)であり、これは26節bの「ヤコブ」(Iakōb)を参照している。さらに、26節bの「ヤコブ」は26節aの「全イスラエル」(pas Israēl)への言及である。これは重要なことである。28節で描写されている集団は、26節で「全イスラエル」という術語によって示されている人々と同じグループなのである。*18

 11:28の「彼ら」について、パウロは「福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです」と述べている。11:11-32では、「あなたがた」はもっぱら異邦人への言及であり、したがって28節における「彼ら」と「あなたがた」の対比は、「彼ら」が民族的イスラエルを指していることを示している*19。内容的にも、「福音によれば、[救われている異邦人]のゆえに、神に敵対している者ですが」という教えは、11:11の「彼ら[民族的イスラエル]の違反によって、救いが異邦人に及んだのです」という教えや11:12の「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら」という言葉と調和している。また、「選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです」という教えは、9:4-5の内容と合致している*20。これらの11:11-12や9:4-5の内容は明らかに民族的イスラエルへの言及である。このような9–11章の中での調和から見ても、11:28の「彼ら」は民族的イスラエルへの言及として解釈したほうがよい。
 以上のことから、11:28の訳文において代名詞が用いられている指示対象、すなわち「ヤコブ」そして「全イスラエル」は民族的イスラエルを指しているものと考えられる。

次回について

 ここでは「新約聖書において『イスラエル』という術語は民族的イスラエルに限って用いられているのか、それとも民族を超えた『神の民』にも適用されているのか」ということを問題としている。したがって、ローマ人への手紙11:26の「全イスラエル」が(9:6でそうであったように)民族的イスラエルから逸脱した意味で用いられてはいない、ということを論じただけでも十分であろう。しかし、「全イスラエル」を「(ユダヤ人信者と異邦人信者の双方を含む)霊的イスラエル」と解釈する選択肢が除外されたとしても、その表現が指している具体的対象は何なのか、という問題が残されている。先述のようにこの11:26は「イスラエル」という存在の将来に関する預言的箇所でもあるため、今後の議論の土台として、次回以降、「全イスラエル」の意味についてさらに詳しく考察していきたい。

*1:太字強調は引用者による。

*2:A. T. Robertson, “Romans 11:26,” Word Pictures of the New Testament, in PC Software e-Sword X.

*3:Louis Berkhof, Systematic Theology (Edinburgh: The Banner of Truth Trust, 1958) 699.

*4:この考えを支持している他の文献としては、以下を参照のこと。Charles H. Horne, “The Meaning of the Phrase ‘And Thus All Israel Will Be Saved’ (Romans 11:26),” Journal of the Evangelical Theological Society, 21(4) (December 1978) 329-34; Ben L. Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” Journal of the Evangelical Theological Society, 43(4) (December 2000) 709-21; Robert B. Strimple, “Amillennialism,” Three Views on the Millennium and Beyond, Darrell L. Bock, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1999) 112-18.

*5:Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” 713-14. Cf. Strimple, “Amillennialism,” 115-17.

*6:Merkle, “Romans 11 and the Future of Ethnic Israel,” 715-18. Merkleは特にテサロニケ人への手紙第一2:14b-16の内容を指摘し、次のように述べている。「パウロは、終わりの時に至るまでユダヤ人の上には神の怒りが注がれるのだと主張している。このテキストから、パウロはこの裁きがイスラエル民族のための特別な経綸によって覆されるなどと想像していないことは明らかである。」(Ibid., 718.)

*7:John Murray, The Epistle to the Romans, (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1997[1965]) 2:96.

*8:Ibid., 2:99.

*9:ジョージ・エルドン・ラッド『終末論』安黒務訳(いのちのことば社、2015年)34頁

*10:George Eldon Ladd, A Theology of the New Testament, Donald A. Hagner, ed., Revised ed. (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1993) 608.

*11:Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993) 785.

*12:Ibid., 220-21.

*13:William Sanday and Arthur C. Headlam, A Critical and Exegetical Commentary of the Epistle to the Romans, The International Critical Commentary, 5th ed. (Edinburgh: T. & T. Clark, 1902) 335.

*14:たとえばイザ40:27「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか」、44:1「今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ」など。他にも2:5;10:20;14:1;17:4;27:6;27:9;29:22;41:6;41:14;43:1;44:21;45:4;48:1;49:6など。なお、民族的イスラエルが「ヤコブ」と呼びかけられている例は出19:3で既に見られるものである。

*15:太字強調は引用者による。

*16:Matt Waymeyer, “The Dual Status of Israel in Romans 11:28,” The Master's Seminary Journal, 16(1) (Spring 2005) 61.

*17:新共同訳では「彼ら」ではなく「イスラエル人」という言葉が付加されている。

*18:Ibid.

*19:Ibid., 62. WaymeyerはここでThomas R. SchreinerやScott Hafemannを引用してこの考えを支持している。

*20:Robertson, “Romans 11:28,” Word Pictures of the New Testament.