今回のトピック
はじめに
あるSNS上での「クリスチャンによるユダヤ人伝道は、反ユダヤ主義の一形態である」という発言を受けて、ユダヤ人伝道の必要性について再考し始めました。その理由は、第一に、私自身がいつか「ユダヤ人に伝道する必要はあるのか?」と問われた時のための準備をしておきたいと思ったからです。もうひとつの理由は、聖書全体の救済論を復習しておく良い機会だなぁと思ったからであります。
前回の記事は、こちらです。
この「再考」シリーズは、次のような構成を考えています。
前回は「神の民」という言葉について考え、以下のことを論じました。
- ユダヤ人であれ異邦人であれ、恵みと信仰によって義と認められなければ神の御国を受け継ぐことはできない。
- 将来イエスが再臨される時、ユダヤ人は民族として恵みと信仰によって救われ、御国を受け継ぐ「民」とされる。
それでは、神は将来ユダヤ人を実質的な「神の民」として回復させられるという終末論は、ユダヤ人にも福音を宣べ伝えるべきであるということと、どのように調和するのでしょうか。今回は「メシアニック・ジュー」という存在を軸にこの問題を考えます。そして最後には、「教会の反ユダヤ主義とユダヤ人伝道の関係性」について考えたいと思います。
5.メシアニック・ジューという存在について
パウロは、ローマ人への手紙11章の中で次のように述べている。
[2]神は、前から知っていたご自分の民を退けられたのではありません。それとも、聖書がエリヤの箇所で言っていることを、あなたがたは知らないのですか。エリヤはイスラエルを神に訴えています。[3]「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを狙っています。」[4]しかし、神が彼に告げられたことは何だったでしょうか。「わたしは、わたし自身のために、男子七千人を残している。これらの者は、バアルに膝をかがめなかった者たちである。」[5]ですから、同じように今この時にも、恵みの選びによって残された者たちがいます。(ロマ11:2–5)*1
イスラエルは神に選ばれた民であるが、そこに属する人々がみな信仰者であったわけではない。しかし、神はいつの時代においても、この民の中に(少数ではあるが)まことの信仰者たちを「恵みの選びによって」残しておられた。そのような「残された者たち」である少数派のユダヤ人たちは、今の時代にも存在している。これが、パウロのいう「新しい一人の人」(教会)に属するユダヤ人の信仰者たちである。
パウロがこのことを教えておきながら、将来ユダヤ人が民族的に救われ、回復させられる時が来ると教えていたのは、異邦人の信者が「自分を知恵のある者と考えないようにするため」(ロマ11:25)、すなわち異邦人信者がユダヤ人に対して誇ることのないようにするためであった(11:18)。端的に言えば、神が将来ユダヤ人を民族的に回復させられるという事実を教えることで、異邦人信者が傲慢にならないようにと警告を与えたのである。
パウロは、将来のユダヤ人の民族的回復を信じていたと同時に、現在のユダヤ人が信仰に至ってキリストのみからだなる教会に加えられる必要性を認識していた。したがって、前者の希望は、既に論じたユダヤ人伝道の必要性と論理的に矛盾してはいないのである。
パウロが述べたように、初代教会の頃も含め、今もなお、「恵みの選びによって残された」ユダヤ人たちが存在している。その中には、単に人種的にユダヤ人である信仰者だけではなく、自らのユダヤ的アイデンティティを保ったまま信仰者でもある人々がいる。ここでは便宜的に、そのようなユダヤ人信者を「メシアニック・ジュー」と呼ぶことにしたい*2。
本議論の発端となった発言では、「クリスチャンがユダヤ人に伝道することは反ユダヤ主義の一形態である」とされていた*3。「反ユダヤ主義」とは、端的に言えば「ユダヤ教徒およびユダヤ人への敵意、憎悪、迫害、偏見を意味する語」である(『世界大百科事典』第2版、平凡社)。しかし、意識的にではなく、無意識的にユダヤ人たちのユダヤ性を排除させようとする姿勢もまた、「無意識的反ユダヤ主義」あるいは「潜在的反ユダヤ主義」と表現することができるだろう。そこで、既に論じた発言者の背景もふまえた上で問われるべきは、以下の2点に集約される。
そこで、ここではメシアニック・ジューという存在を軸にして、1. の問いについて考えたい。2. の問いについては、本項をふまえた上で、次項にて考えたい。
第一に、ユダヤ人伝道は意識的反ユダヤ主義の一形態とは言えない。既に論じた救済論的議論をふまえれば、伝道という行為自体は、本来ユダヤ人であるかないかに関わらず必要とされるものであり、そこにはユダヤ人への敵意や憎悪等は関係ない。さらに、我々はローマ人への手紙から、ユダヤ人であるパウロ自身が、ユダヤ人伝道の必要性を論じていることを何度も見てきた。それは、パウロ自身の、同胞たちに対する愛に基づくものであった。したがって、パウロが説くユダヤ人伝道の必要性は、反ユダヤ主義どころか、その真逆に位置付けられる姿勢に裏打ちされているのである。
第二に、ユダヤ人伝道は無意識的反ユダヤ主義の一形態でもない。まず救済論的に考察するならば、救いは人種とは無関係に必要とされているのだから、信者であることは人種とは無関係であり、人種的アイデンティティを否定するものではないということになる。次に、ここで鍵となるのが、先に触れた「メシアニック・ジュー」の存在である。もし、ユダヤ人がイエス・キリストを信じることによって彼らのユダヤ人としてのアイデンティティが失われるのであれば、ユダヤ人伝道は無意識的反ユダヤ主義であると言うことができるかもしれない。しかし、メシアニック・ジューの人々は、自らのユダヤ的アイデンティティを保ったまま、自らがキリストのみからだなる教会の一部でもあり、現代の「残された者」であると認識している。
また、このことは初代教会におけるユダヤ人信者の例からも明らかである。ペテロたちは、聖霊が降臨し教会が誕生して以降も、神殿へ礼拝を献げに行くというユダヤ人的生活習慣を捨てることはなかった(使2:46;3:1)。パウロもまた、伝道旅行の際には行く先々でまずユダヤ人の会堂に入り(使13:5;14:1;17:1–2;18:4など)、エルサレムに入った際には神殿へ行っている(使21:26)。ユダヤ人がキリストを信じてもユダヤ性が失われるわけではないということは、初代教会時代から一貫しているのであり、それを現代において体現しているのが、ここでメシアニック・ジューと呼ばれている人々なのである。
ユダヤ的アイデンティティと信者(教会の一部)としてのアイデンティティは両立し得る。このことは、「ユダヤ人はユダヤ人のままキリストを信じることなしに、また異邦人クリスチャンは異邦人クリスチャンとして神の民である」という二契約神学的姿勢では、十分に説明することができない*4。また、このような姿勢では、メシアニック・ジューの存在という客観的現実をも十分に受け止めることはできないのである。なぜなら、この姿勢では、メシアニック・ジューの存在が論理的に必要ではなくなってしまうからである。これをふまえると、ユダヤ人であるメシアニック・ジューを対象とするならば、二契約神学的姿勢こそが、彼らに対する反ユダヤ主義の一形態であるという結論に辿り着く。さらに、ユダヤ人にも救いが必要であるという神学的前提も受け入れた場合、二契約神学的姿勢は、ユダヤ人全体に対しても反ユダヤ主義の一形態であるということになってしまうのである。
6.教会の反ユダヤ主義とユダヤ人伝道の関係性
ユダヤ人伝道という行為自体は、反ユダヤ主義の一形態ではない。これをふまえた上で次に問われるべきは、「異邦人によるユダヤ人伝道は、意識的/無意識的反ユダヤ主義を内包している行為か?」ということである。
パウロは、自らは「異邦人への使徒」であり、その務めについて「重く受け止めています」と述べている(ロマ11:13)。しかし、彼にとっては、その異邦人伝道ですらユダヤ人伝道に結びつく務めであった。ユダヤ人の大半がイエスを拒否したという事実について、彼は次のように述べている。
それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。(ロマ11:11)
この聖句から分かるのは、「神は、異邦人を救うという目的のために、イスラエルのつまずきを計画された」ということである。「異邦人の救いという目的のために、イスラエルはつまずいたのである。」*5 さらには、その異邦人の救いが「イスラエルにねたみを起こさせ」たと言われている。パウロはこのことと、自らの「異邦人への使徒」という使命を関連させて、その務めがユダヤ人伝道に繋がるものであると認識していた。
[13]そこで、異邦人であるあなたがたに言いますが、私は異邦人への使徒ですから、自分の務めを重く受けとめています。[14]私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。(ロマ11:13–14)
つまり、異邦人の救いがユダヤ人にねたみを起こさせ、そのねたみがユダヤ人を、イエスを信じる信仰による救いへと至らせるというのである。このことについて、アーノルド・フルクテンバウムは次のように解説している。
なぜ今、神は異邦人を救っておられるのか。それはユダヤ人にねたみを起こさせるためである。パウロが使っているギリシア語は「だれかのそばに来て、その人をねたみで煮えくりかえらせる」という意味である。神が異邦人を救った理由は、信者の異邦人が未信者のユダヤ人のそばに来て自分が持っているものでねたみを起こさせ、そのユダヤ人もメシアを信じるようになることである。*6
ユダヤ人が異邦人の救いによって「ねたみ」を覚えるということは、異邦人が本来ユダヤ人のものである聖書から学び、ユダヤ人のメシアである方を信じ、ユダヤ人に約束されていた霊的祝福を得ることによる。したがって、異邦人信者が聖書や福音のメッセージ本来のユダヤ性を認識した上で、自らがその福音を信じる者であると証し、あるいはその福音のメッセージを直接伝えていくことが、ユダヤ人にねたみを起こさせることに繋がっていく。C・E・B・クランフィールドが次のように述べている通りである。
神ご自身が特別に所有しておられる民であるイスラエルは、他の人々が彼らの神の恵みと善とを受け取っているのを見るとき、自分たちが何を逃してしまったのかを理解し始める。そして、彼らが拒んだ救いを求めるようになるのである。*7
したがって、異邦人はユダヤ人に伝道すべきではないどころか、異邦人もまたユダヤ人伝道に携わっていくことこそが、パウロの主張と調和する行為であるといえる。この観点からすれば、異邦人によるユダヤ人伝道もまた、本来は反ユダヤ主義的であるどころか、ユダヤ人への愛に基づいた行為なのである。
しかし、異邦人が中心となったキリスト教界は、パウロが示した愛に基づくユダヤ人伝道に携わるどころか、反ユダヤ主義を積極的に推進してきたという歴史的事実がある。これは現在進行形でもあるが*8、その規模と残忍さでは、ナチス・ドイツによるホロコーストにおいて頂点を迎えたといえる*9。この事実がユダヤ人伝道に与えている影響については、デイビッド・スターンが説明している通りであるといえよう。
一般的にユダヤ人伝道をマイナスにしているのはホロコーストの悪いイメージからきているといえよう。事実ナチの手によって六〇〇万人ものユダヤ人たちが殺された。ヒットラー政権の二〇年間、国内の教会は沈黙し、目に見える悪に対して脆弱であった。キリスト教神学の主流は、表面的には反ユダヤ的ではないにしろ、ユダヤ人あるいはユダヤ教には冷たく、悪意に満ちた反ユダヤ的流れを抑えることはできなかったのである。*10
それでは、我々異邦人クリスチャンは、ホロコーストの悲劇を考慮して、心情的にユダヤ人伝道を控えるべきなのだろうか? あの悲劇をふまえた現在の状況下では、異邦人によるユダヤ人伝道は、いかに愛が伴っていたとしても、無意識的反ユダヤ主義を内包した行為であるということになってしまうのだろうか?
しかし、繰り返しになるが、ユダヤ人もまたイエスを信じることによる救いを必要としているという聖書の主張をふまえると、ユダヤ人伝道が必要であることは確かである。また、異邦人によるユダヤ人伝道を必要とするパウロの教えと、我々の心情的判断を天秤にかけるのであれば、保守的福音主義の視座からは、重視すべきは聖書の教えである。さらに、現代のメシアニック・ジューの中には、実際に異邦人信者によって「ねたみ」を引き起こされて、信仰に至った者が実際に存在している*11。聖書の主張に基づき、さらにパウロのような愛に基づいたものであるならば、ホロコースト以降においても、異邦人によるユダヤ人伝道が無意識的反ユダヤ主義の一形態であるとは言い難い。論理的にはむしろ、メシアニック・ジューであるスターン自身がいうように、「ユダヤ人伝道の拒絶・軽視」こそ「反ユダヤ的」であるとさえいえるのである*12。異邦人によるユダヤ人伝道は現在も必要であり、それはキリスト教界の反ユダヤ主義の歴史をふまえた上でも、否定されるべきではない。
しかし、異邦人クリスチャンは、キリスト教界が犯してきた反ユダヤ主義の歴史をふまえて「謙遜」になるべきである*13。パウロが、異邦人の救いがユダヤ人の救いに繋がると述べた直後に、ユダヤ人に対して「誇ってはいけません」と警告していた通りである(ロマ11:18)。クリスチャンによる反ユダヤ主義の歴史は、ユダヤ人に対して傲慢になったが故に築き上げられてしまったものでもある。我々はその歴史から反省を覚え、その上で、聖書が教えるようにユダヤ人伝道に取り組んでいくべきである。
議論の最後として、ホロコーストをふまえたユダヤ人伝道に関する、スターンの言葉に耳を傾けたい。
人道的にもホロコーストの記憶は痛々しく、人が弁証するには余りに膨大な賠償であろう。しかし神だけが、奇蹟的な方法をもって、キリスト・イエスのいやしをとおし、赦すことができるという特質の生ける心を回復することができるのである。
どんなクリスチャンであっても、ホロコーストの記憶の中にいるユダヤ人に赦しを得る権利はない。キリスト・イエスによっていやされていないユダヤ人から赦しを得ることは不可能である。しかし、クリスチャンはユダヤ人に福音を伝えるべきである。その理由は、それが真理であり、そうする必要があるからだ。イエスを信じない人々は、異邦の民と同じように、永遠の裁きに定められる。イスラエルの真のメシアであるイエスがいなければ、ユダヤ人は聖書に書かれてある、栄光に満ちたゴールに達することはできない。それゆえ、ユダヤ人に福音を宣べ伝えないことは、あらゆる行為の中で最も悪いアンティセミティズム(反ユダヤ主義)であろう。
クリスチャンの皆さん。ホロコーストや異教審問、ポグロムやあらゆるユダヤ人に対する嫌がらせが過去にあったとしても、ユダヤ人に福音を宣べ伝えていただきたい。メシアであるイエスがおられなければ、ユダヤ人は個人においても、イスラエルの国全体においても、希望がないのであるから。*14
*1:以後、聖書引用は新改訳2017による。
*2:実際には、メシアニック・ジューという用語は厳密な定義が困難である。「トーラーの枠組みの中で……ユダヤ的ライフスタイルを露にしている」信者を指すという狭い定義を行う者もいれば(David H. Stern, Messianic Judaism: A Modern Movement With an Ancient Past [Clarksville, MD: Lederer Books, 2007], 20)、「イェシュア(イエス)を自分のメシアとして受け入れたユダヤ人」という広い定義を行う者もいる(アーノルド・フルクテンバウム『ヘブル的キリスト教入門─メシアニック・ジューの歴史、神学、哲学から学ぶ─』佐野剛史訳[ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部、2016年]16頁)。この用語を巡る議論については、拙稿「メシアニック・ジュー運動に関する参考文献紹介」をご参照いただきたい。
*3:「『ユダヤ人伝道は必要ない』?(再考:その1)」をご参照いただきたい。
*4:Arnulf H. Baumann, “The Two Ways/Two Covenants Theory,” Mishkan 11(1989): 40–41.
*5:フルクテンバウム『イスラエル学』中川健一監訳、佐野剛史訳(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部、2018年)224頁。
*6:同上。
*7:C. E. B. Cranfield, A Critical and Exegetical Commentary on the Epistle to the Romans: Commentary on Romans IX–XVI and Essays, International Critical Commentary (Edinburg: T. & T. Clark, 1979), 556.
*8:このことを巡る議論については、Thomas Ice, The Case for Zionism: Why Christian Should Support Israel (Green Forest, AR: New Leaf Press, 2017), 149–58に詳しい。
*9:マービン・R・ウィルソン『私たちの父アブラハム』B.F.P.Japan出版部訳(B.F.P.Japan、2015年)149頁。
*10:デイビッド・スターン『福音とユダヤ性の回復』横山隆監訳(マルコーシュ・パブリケーション、1995年)158–59頁。
*11:たとえば、ONE FOR ISRAEL代表のエレズ・ソレフや、同メディア宣教部門ディレクターのエイタン・バールは、それぞれ来日講演において、異邦人信者たちを見て「妬みに駆り立てられた」ことが信者になるきっかけであったことを語っている。エレズ・ソレフ「ユダヤ人はどのようにして救われるか」(2012年3月19日;2018年9月3日閲覧);エイタン・バール「インターネット時代のユダヤ人伝道」第8回再臨待望聖会(2017年11月、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ)。
*13:前掲書、159頁。
*14:前掲書、160–61頁。