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ディスペンセーション主義とは何か?(3)〈ディスペンセーション〉の定義

※本記事は以下のnote記事からの転載です。

ディスペンセーション主義とは何か?(3) 〈ディスペンセーション〉の定義|balien|note

 前回、チャールズ・C・ライリーら複数のディスペンセーション主義神学者が、この立場の「必須条件」についてどのように理解しているのかを取り上げました。ライリーらは、この聖書解釈体系における必須条件は(1)イスラエルと教会の区別、(2)歴史的文法的解釈法、(3)神の計画の目的を「神の栄光」とする、の3つであると論じていました。
 以上のことから、聖書解釈におけるこの立場の信条を確認することができました。しかし、この先ディスペンセーション主義そのものを定義するためには、〈ディスペンセーション〉という用語そのものを定義する必要があります。

 早速ディスペンセーション主義者自身がこの用語をどのように定義して使用しているのか観察していきたいところですが、その前にまず、第1回のように、非ディスペンセーション主義神学者がディスペンセーション主義におけるこの用語の定義をどう考えているのか、確認しておきたいと思います。
 前々回と同様、フスト・ゴンサレスとミラード・J・エリクソンの2人を例にとりましょう。ゴンサレスは〈ディスペンセーション〉を「その中で神が人類に何かを啓示するが、人間はその実現に失敗し、その結果、新たな経綸と新たな啓示へ進んで行くという一連の経綸」と表現しています(ゴンサレス 2010:85)。一方でエリクソンは、「ディスペンセーション(dispensations)*1」とは「神がそのもとでこの世を管理している経綸(economies)*2」であり、「神がご自身の目的を啓示する際の連続的な段階である」と定義しています(エリクソン 2006、4:365)。
 したがって、ゴンサレスとエリクソンの理解を統合すると、〈ディスペンセーション〉について以下のことがいえます。

  • ディスペンセーション(dispensations)とは、神がそのもとでこの世を管理している経綸(economies)のこと(統治体制、と言い換えることもできよう)である。
  • ディスペンセーションとは、神がご自身の目的を啓示する際の連続的な段階である。
  • ひとつのディスペンセーション(段階)において神は人類に啓示を与えられるが、人類はその実現に失敗し、その結果、新たなディスペンセーションと新たな啓示へ進んでいく。

 以上の説明は、これより見ていくディスペンセーション主義神学者自身による主張とも合致する部分が多くあります。それでは、ライリーのようなディスペンセーション主義神学者たちがこの用語をどのような定義で用いているのか、詳細に見ていきましょう。

1.〈ディスペンセーション〉の語源と意味

 英語におけるdispensationという名詞は、ラテン語dispensatio(施し、という意味がある)が英語化したものです(Ryrie 1995: 29)。キリスト教神学に関する記述では、ディスペンセーション主義においてこの言葉は〈時代〉もしくは〈時期〉という意味で使用されているものと理解されていることがあります*3。しかし、dispensationおよびdispensatioには〈時代〉や〈時期〉という意味は含まれていません。
 ヒエロニムス(A.D. 340頃―420)によるラテン語訳聖書のヴルガータ訳では、dispensatioギリシャ語の単語oikonomiaの訳語として使用されています。また、英語訳聖書のKing James Versionではoikonomiaの訳語としてdispensationが4回使用されています(1コリ9:17、エペ1:10;3:2、コロ1:25)。ディスペンセーション主義では一般的に、聖書におけるoikonomiaの使用例から〈ディスペンセーション〉という概念が得られるものと考えられています(Ryrie 1995: 29-36)。
 oikonomiaとは〈家(もしくは家事)の管理〉を意味する名詞です。動詞形としてoikonomeoが、また同じ語源を持つ名詞として〈家の管理者〉という意味のoikonomosがあります。この単語の意味から、〈ディスペンセーション〉を英語で説明するときには、oikonomiaを語源とするeconomyや、もしくはadministration(統治、管理)という単語が使用されることがあります。ダラス神学校の創設者である組織神学者のルイス・S・シェーファーは、dispensationはstewardshipといった意味をも有していると主張しています(Chafer 1974[1926]: 126)。このoikonomiaについても、〈時代〉や〈時期〉という意味は含まれていません。

2.聖書におけるoikonomiaの使用例

 新約聖書ではoikonomiaが動詞形で1回(ルカ16:2)、名詞形で9回(ルカ16:2;16:3;16:4、1コリ9:17、エペ1:10;3:2;3:9、コロ1:25、1テモ1:4)使用されています。また、〈管理者〉を指すoikonomosが10回使われています(ルカ12:42;16:1;16:3;16:8、ロマ16:23、1コリ4:1;4:2、ガラ4:2、テト1:7、1ペテ4:10)。特にパウロは神に対する責務を教えるため、神学的にこの用語を使用していることがわかります(1コリ4:1-2、テト1:7)。例として、第一コリント4章から引用してみましょう。

こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。(1コリ4:1-2;新改訳第三版)

上記の箇所で2回登場する「管理者」という単語が、ギリシャ語のoikonomosです。パウロは「神の協力者」としてキリストの御体である教会を建て上げる役割にある彼自身(1コリ3:9)を、「キリストのしもべ」また「神の奥義の管理者」だと言っています。彼は「神の奥義の管理者」には、神の奥義すなわち与えられた啓示に対して「忠実であることが要求され」るのだと教えています。ここでは、oikonomosが教理を教えるために神学的に使用されています。

 また、パウロはエペソ人への手紙で、oikonomiaを神の計画における段階の進展を指して使用しています。

それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。(エペソ1:9b-10;新改訳第三版)

これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。(同 新共同訳)

ここで新改訳、新共同訳ともに、神の計画におけるoikonomiaという概念を「時」と訳すことで表現しています。ここでのoikonomiaは神のご計画における「時」、すなわち神の計画における段階の進展を指して用いられていることがわかります。既に確認したようにoikonomiaという単語自体は「時」という概念を持っていないのですが、翻訳者の工夫の跡が見て取れます。
 さて、同じエペソ書の3章2節において再びoikonomiaが使われています。

あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。(エペ3:2;新改訳第三版)

ここでは「務め」と訳されている言葉がそうです。パウロは第一コリント4章と同様、神から(パウロに)与えられた責務を表現してoikonomiaを使用しています。

3.〈ディスペンセーション〉の定義

 以上、新約聖書におけるoikonomiaの使用例を観察した結果、そこには〈神の計画における段階の進展〉や〈神から与えられた責務〉といった概念が含まれていることがわかりました。このことを踏まえた上で、ライリーは〈ディスペンセーション〉を次のように定義します。

ディスペンセーションの簡潔な定義はこれである。ディスペンセーションとは、神の計画が進められる中で明確に区分可能な統治原則(経綸:economy)のことである。(Ryrie 1995: 33)

また、米国のディスペンセーション主義神学者であるレナルド・E・シャワーズは次のように定義しています。

新約聖書におけるディスペンセーションという言葉の使用法から見ると、ディスペンセーション主義神学に関連する用語としてのディスペンセーションは次のように定義できる。それは、神が世界の歴史においてご自分の目的を段階的に実現していく中での、世界を統治する特定の方法である。(Showers 1990: 30)

4.〈ディスペンセーション〉の持つ特徴

 〈ディスペンセーション〉の簡潔な定義を引用した後で、ディスペンセーション主義におけるこの概念の考え方や特徴を、もう少し詳しく見ていきたいと思います。
 ライリーは定義の中で〈ディスペンセーション〉という神の「統治原則」は「明確に区分可能」であるとしています。彼は、現実の諸国家における政治形態は完全に異なっているわけではないがそれぞれ区分可能なように、神の計画の各段階における統治原則にもそれぞれ類似している点があるが、明確に区分することが可能だと主張します。すなわち、神の計画が進展し、新しい統治原則に移行した際にはそれが区分可能だということになります。
 上記のライリーの考え方(そしてディスペンセーション主義における一般的考え方でもあります)の土台となっているのは、聖書論における〈漸進的啓示(progressive revelation)〉という概念です。福音主義神学における漸進的啓示とは、「後からなされた啓示が、先になされた啓示の上に、それを否定するのではなく、補足し、追加していく形で築かれるという考え方」です(エリクソン 2003、1:251-252)。ディスペンセーション主義ではこの漸進的啓示の概念から「区分可能な啓示の段階」を見ます(Ryrie 1995: 38)。それらの段階は、神の計画が進展していく中で統治原則あるいは経綸(economies)という形で確認されます。したがって、ディスペンセーション主義では神の計画の一体性と、その計画が進展していく中での各統治原則の相違点の両方を認識します。

 こういった漸進的啓示の進展に伴う統治原則、すなわち〈ディスペンセーション〉の移行について、ライリーは3つの主要な特徴を指摘しています(Ryrie 1995: 40)。

  1. 神が人間を統治する上での関係性が変化する
  2. 結果として人間の責任が変化する
  3. 変化を及ぼすために必要な神からの啓示がある(これが聖書を通した漸進的啓示における新しい段階である)

 続いてライリーは、〈ディスペンセーション〉の移行に関する2次的特徴として以下の3点を挙げています。

  1. 新たなディスペンセーションにおける責任に従うかどうかを試すテスト
  2. テストに対する人類の失敗
  3. 罪に対する裁き

ライリーは、これらの要素はあくまで2次的なものであり、〈ディスペンセーション〉が存続する上での必須条件ではないとしています。以上の3つの2次的特徴については、解説しようとするとディスペンセーション主義における各〈ディスペンセーション〉について観察していかなければならないため、ここでは詳細な説明を割愛します。
 ただ、たとえばモーセの律法が与えられていた時代のことを考えると、モーセの律法はイエス・キリストを指し示すために与えられましたが(ガラ3:24)、ユダヤ人の宗教的指導者はイエスをメシアとして拒否し、その結果A.D. 70年にエルサレム崩壊という裁きがもたらされました(マタ23:36-38)。この例から、モーセの律法が与えられてから紀元1世紀までの期間*4については、上記の3つの2次的特徴が見られることがわかります。

5.まとめ

 これまでに紹介してきた〈ディスペンセーション〉という概念に対する考え方や特徴を統合して、ライリーはディスペンセーション主義におけるこの用語の捉え方について、次のように要約しています。この引用をもって、今回のセクションを終わりとしたいと思います。

ディスペンセーション(a dispensation)は神の視点から見れば経綸(an economy)である。人の視点から見れば責任(a responsibility)である。そして、漸進的啓示との関連でいえば段階(a stage)である。(Ryrie 1995: 36)

6.次回の展開

 長くなってしまいましたが、第3回では、ディスペンセーション主義という聖書解釈体系における〈ディスペンセーション〉という用語の定義とその特徴を確認しました。次回の第4回では、これまでの〈ディスペンセーション主義の必須条件〉および〈ディスペンセーションという用語の定義と特徴〉と復習し、最後にディスペンセーション主義そのものの定義を紹介します。

引用・参考文献

  • Chafer, Lewis S., Major Bible Themes, Revised ed. (Grand Rapids: Zondervan, 1974[1926])
  • Fruchtenbaum, Arnold G., Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992)
  • Id., “The Dispensations of God,” The Messianic Bible Study Collection, MBS041 (Ariel Ministries, 2005[1985])
  • Ryrie, Charles C., Dispensationalism (Chicago: Moody Publishers, 1995)
  • Showers, Renald E., There Really is a Difference: A Comparison of Covenant and Dispensational Theology (Bellmawr, NJ: Friends of Israel Gospel Ministry, 1990)
  • エリクソン、ミラード・J『キリスト教神学』全4巻、安黒務、伊藤淑美、森谷正志共訳、宇田進監修(いのちのことば社、2003–6年)
  • ゴンサレス、フスト『キリスト教神学基本用語集』鈴木浩訳(教文館、2010年)
  • バルストン、モッテル『エデンの園から新天新地まで』第6回再臨待望聖会配布資料(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2015年)
  • マクグラスアリスター・E『キリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館、2002年)

*1:英語の〈dispensation〉という名詞には「(権力者・教会などからの)特別な許し[許可]」、もしくは「(政治・宗教などの)体制,制度,秩序;神の定め[摂理]」といった意味がある(ウィスダム英和辞典第3版)。ここでは主に後者の意味で使用されているのだろうと考えられる。

*2:日本語の〈経綸〉には「国家を治めととのえること。また、その方策」という意味がある(広辞苑第6版より)。また〈economy〉という名詞は第一義的に「経済,経済制度[機構]」という意味で使用されているが、他にも「(むだのない)有機的統一(体);(組織・自然界の)体系,統一」という意味も持っている(ウィスダム英和辞典第3版)。

*3:ウィキペディア日本語版では、ディスペンセーション主義の概要について「神の人類に対する取り扱いの歴史(救済史)が、七つの時期に分割されるとする神学」と記述されている。また、ディスペンセーション主義の別称として「契約時期分割主義」という呼称が紹介されている(この別称についてはエリクソン[2006、4:365]の監修者注記も参照のこと)。
ウィキペディア日本語版ディスペンセーション主義」(2015年5月26日更新、2015年8月17日閲覧)

*4:ディスペンセーション主義では「律法の時代」(The Dispensation of the Mosaic Law もしくは The Dispensation of the Law)という用語で呼ばれている(Chafer 1974[1926]、Ryrie 1995およびShowers 1990)。