※本記事は以下のnote記事からの転載です。
ディスペンセーション主義とは何か?(4) ディスペンセーション主義の定義|balien|note
第3回までで、(1)非ディスペンセーション主義神学者による〈ディスペンセーション主義〉の定義、(2)ディスペンセーション主義神学者が主張する〈ディスペンセーション主義の必須条件〉、(3)ディスペンセーション主義における〈ディスペンセーション〉という用語の定義を確認しました。この第4回では、第2回と第3回の内容を統合して再整理し、最後にディスペンセーション主義そのものを定義したいと思います。
トピックは以下の通りです。
1.ディスペンセーション主義の特徴
(1)歴史的文法的解釈法
福音主義神学では、旧新約聖書は神から与えられた啓示として字義的に解釈されなければなりません(ストット 1974:280-289、ライト 2015:270-279)。すなわち、聖書の文章自体が字面通りに読むことを要求している場合はその通りに読み、比喩表現や象徴が用いられている場合は比喩的あるいは象徴的に解釈する必要がある、ということです。
しかし、聖書の内容とそれを読む私たちとの間には大きな地理的・歴史的・文化的隔たりがあります(ラム 1963:148-153)。また、当然言語の面でも隔たりがあります。したがって、聖書を字義的に解釈する際には、その解釈に歴史的文法的根拠がなければなりません(ストット 1974:289-297)。聖書を解釈する上では歴史的背景や言語(ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語)の文法などをふまえ、当時の読者にとってどのように理解されたのかを考える必要があります。そのような解釈の方法を〈歴史的文法的解釈法〉といいます。
ディスペンセーション主義という聖書解釈体系は、歴史的文法的解釈法に基づいた字義的解釈を聖書の全領域に適用した結果、導き出されたものだとされています。
(2)ディスペンセーションという概念
聖書における神の啓示は、一度に全て与えられたわけではありません。聖書では「後からなされた啓示が、先になされた啓示の上に、それを否定するのではなく、補足し、追加していく形で築かれ」ています(エリクソン 2003、1:251-252)。この概念は〈漸進的啓示〉と呼ばれ、福音主義神学の聖書解釈学では基本的な原則となっています。
ディスペンセーション主義を採用する者は、聖書の歴史的文法的解釈の結果、旧新約聖書で漸進的に啓示されている神の計画の中には、神が世界を統治する際の統治原則(方法)がいくつか見られると主張します。それらの諸原則は計画の進展に伴って明確に区分可能である、とされています。この統治原則あるいは統治の方法は、ディスペンセーション主義では〈ディスペンセーション〉と呼ばれています。
聖書の中で啓示が漸進的に与えられ、(1)神が人間を統治する上での関係性が変化し、(2)結果として人間の責任が変化し、(3)変化を及ぼすために必要な神からの啓示がある、といった3点の特徴が認められたとき、神が人間を統治する方法(ディスペンセーション)が変化したものと考えられます(Ryrie 1995: 48)。
以上のような考え方から、ライリーはディスペンセーションという概念を次のように要約しています。
ディスペンセーション(a dispensation)は神の視点から見れば経綸(an economy)である。人の視点から見れば責任(a responsibility)である。そして、漸進的啓示との関連でいえば段階(a stage)である。(Ryrie 1995: 36)
(3)神の計画の目的
聖書に啓示された神の計画の中で、最も中心的な役割を果たすのはメシアの贖罪死と復活です。これは人類の救済だけではなく、自然界の回復にまで影響する要素であります(ロマ8:19-23参照)。メシアの御業は神の計画における土台となっていますが、その計画の構成要素は人類の救済だけではありません。神がアブラハムと契約を結ばれたとき、そこには物質的祝福(土地や子孫に関する祝福)と霊的祝福の両方が含まれていました(創12:1-3;15:4-5;15:18-21など)。神が人に与えられた約束は必ず成就されなければなりません。それらが全て成就することによって、神の栄光が現されることになります。したがって、ディスペンセーション主義では聖書を歴史的文法的に解釈した結果、神の計画の究極的な目的は神の栄光が現されることだと考えます。
(4)イスラエルと教会の区別
ディスペンセーション主義における聖書の歴史的文法的解釈の結果として最も特徴的であるのは、イスラエルと教会という存在を一貫して区別しているということです。この立場を採用する者は、旧新約聖書ともに〈イスラエル〉や〈ユダヤ人〉がイスラエル民族以外を指す象徴的な言葉として用いられている箇所は1つもない、と主張します(Showers 1990: 52; 183-186、中川 1993:85-96)。〈イスラエル〉とはあくまで〈アブラハム、イサク、ヤコブの子孫〉から成る民族を指す言葉であり、教会を〈霊的イスラエル〉や〈霊的ユダヤ人〉と呼ぶことは聖書的ではない、と考えられています。この場合の〈イスラエル〉に対する認識については、拙稿「福音派のイスラエル理解(2)ディスペンセーション主義編」をご参照ください。
2.ディスペンセーション主義の定義
ライリーは、ディスペンセーション主義について以下のように要約しています。
要約するとこのようになる。ディスペンセーション主義は、世界が神によって管理されている家であると見る。この家の中で、神は御心に従って、漸進的啓示に伴うそれぞれの段階に応じて管理し、運営しておられる。そういった段階の中で、神の計画全体が進行していく中で経綸が明確に区別される。これらの経綸がディスペンセーションである。神の異なるディスペンセーションを理解するためには、啓示を適切に理解することが必要となる。(Ryrie 1995: 34-35)
最後に述べられている「啓示を適切に理解する」ためには、聖書を歴史的文法的に解釈する必要があり、その中で神の計画の目的は神の栄光が現されることであり、イスラエルと教会は一貫して区別されるものと考えられています。
以上のことから、ディスペンセーション主義とは(1)歴史的文法的解釈を聖書全体に適用し、(2)神の計画について考える上で〈ディスペンセーション〉という概念を用い、(3)その計画の目的は神の栄光が現れることだと考え、(4)その計画においてイスラエルと教会を一貫して区別する、といった考え方に基づいた〈聖書解釈体系〉である、ということができるでしょう*1。
3.今後の展開
これまで4回に渡って、〈ディスペンセーション主義〉の特徴の記述と定義を試みてきました。次にこの聖書解釈体系についてさらに説明していくためには、〈イスラエルと教会の区別〉やそもそもの〈歴史的文法的解釈法〉に関する説明が必要であるものと思われます。〈イスラエルと教会の区別〉については以前投稿した記事で(非常に簡単にではありますが)基本的な考えがまとめられています。またこのテーマについては将来的に、論争となる聖句に関して個別に扱い、ノートとしてまとめていくことができたらと考えています。〈歴史的文法的解釈法〉に関するさらなる説明や議論については、現在の私の能力を超えていますのでこれ以上扱うことはできません。
そこで、続けて「ディスペンセーション主義とは何か?」を考えていくためには、まず〈ディスペンセーション主義の歴史的変遷〉を追っていきたいと考えています。なぜなら、一般的にこの聖書解釈体系は19世紀以降に展開されたものであると見做されており(マクグラス 2002:768、Ryrie 1995: 69-70)、それによって歴史的正統性が弱いとされていることが多いからです(岡山 2000:37-38)。そういった主張について検証する意味も込めて、この聖書解釈体系に着目した歴史神学に取り組む意義は大きいものと考えられます。その土台として、次回は初期教父たちの神学とディスペンセーション主義との関連性について見ていくことにします。
引用・参考文献
- Fruchtenbaum, Arnold G., Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, Revised ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992)
- Ice, Thomas D., “What is Dispensationalism?,” Article Archives (Liberty University, 2009), Paper 71.
- Leventhal, Barry R., “Dispensational Apologetics,” Ariel Ministries Magazine (San Antonio, TX: Ariel Ministries, Spring 2015), pp. 10-13.
- Ryrie, Charles C., Dispensationalism (Chicago: Moody Publishers, 1995)
- Showers, Renald E., There Really is a Difference: A Comparison of Covenant and Dispensational Theology (Bellmawr, NJ: Friends of Israel Gospel Ministry, 1990)
- エリクソン、ミラード・J『キリスト教神学』全4巻、安黒務、伊藤淑美、森谷正志共訳、宇田進監修、(いのちのことば社、2003–6年)
- 岡山英雄「患難期と教会(黙示録の終末論)」『福音主義神学』第31号(日本福音主義神学会、2000年)33–48頁
- ストット、ジョン・R・W『聖書理解のためのガイドブック』舟喜順一、岩井満共訳(聖書同盟、1974年)
- 中川健一『エルサレムの平和のために祈れ─続ユダヤ入門─』(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ出版部、1993年)
- マクグラス、アリスター・E『キリスト教神学入門』神代真砂実訳(教文館、2002年)
- ライト、N・T『クリスチャンであるとは─N・T・ライトによるキリスト教入門』上沼昌雄訳(あめんどう、2015年)
- ラム,バーナード『聖書解釈学概論』村瀬俊夫訳(聖書図書刊行会、1963年)
*1:シャワーズはディスペンセーション主義を歴史哲学(philosophy of history)との関連で捉え、「ディスペンセーション主義神学とは、神の統治原則に基づいて聖書の歴史哲学を展開しようと試みる神学体系である」と定義している(Showers 1990: 27)。彼は聖書が「究極的で権威のある歴史哲学を提供している」と考え、したがって人が聖書の内容を理解する上では、聖書の歴史哲学へのアプローチの方法が非常に重要であると主張している(Showers 1990: 1-6; 207-208)。
なお、ディスペンセーション主義を採用する神学者の中にはシャワーズのように「ディスペンセーション主義神学」という呼び方を用いている者がいる。しかし、たとえばバリー・R・リヴェンタール(ディスペンセーション主義を採用する米国の神学者、メシアニック・ジューである)は、ディスペンセーション主義が神学体系そのものであるかのような考え方を否定する。彼は「ディスペンセーション主義は概念体系であり、神学のすべての分野と関係しているわけではない。むしろ、聖書解釈体系であると定義するべきである」と主張している(Leventhal 2015: 10)。