軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ヨハネの手紙第一 覚書き(4)1章1–2節

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

balien.hatenablog.com

 今回から、ようやっと手紙の本論であります。(なお、本文の引用は新改訳第三版からのものです。)

トピック

序論(1:1–4)

1: 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
2: ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
3: 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
4: 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 多くの注解者が認めるように、この序文には「文法的なもつれ」が見られる*1。しかし、ほとんどの訳文に見られるように、2節は「─」や()で区切られており、挿入句として扱われている*2。テキストの意味からすると、1節は3節と直接繋がっているのである。
 よって、この序論における主文の意味は1節と3、4節を繋ぐことによって明らかになる。「いのちのことばについて、……あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。……私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」すなわち、この手紙でヨハネが扱おうとしている主題は「いのちのことば」についてなのである。そして、ヨハネが「いのちのことば」について読者に書き送る理由は、読者がヨハネたちと「交わりを持つようになるため」であり、「喜びが満ちあふれるようになるため」(新共同訳)なのだという。

1章1節

 この序文がすぐに読者に想起させるのは、ヨハネ福音書1:1–4であろう。

1: 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
2: この方は、初めに神とともにおられた。
3: すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
4: この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

福音書の1:1と手紙の序文との間だけでも、「初めに en archēi」と「初めに ap’ archēs」、「ことば ho logos」と「いのちのことば ho logos ho zōēn」といったよく似た語が用いられていることがわかる。福音書1:1–4の中で、特に以下の事柄について手紙の序文と強い関係が見られる。<>内の聖書箇所は、手紙の序文における関連箇所を示している。

  1. 「ことば」は「初め」から存在しておられる。<1:1>
  2. 「ことばは神であった」。<1:2、3>
  3. 「初めに」、「ことば」は「神とともにおられた」。<1:2>
  4. また、「ことば」に「いのち zōē」があった。<1:1、2>

このように、福音書と手紙の序文には相関関係が見られる。Westcottはこの関係について、「[Iヨハ1:1–4とヨハ1:1–18とは]並行的なものではなく、補完的なものである」と表現している*3
 この2つの書物の序文は、内容を観察してみると、単に類似しているだけではないことがわかる。表現や語句は確かに似ているが、その内容自体は異なっているように思えるところもある。その相違点まで抽出することにより、Westcottの言う通り、2つの序文は単なる類似関係ではなく「補完的な」関係にあることがわかる。
 「いのちのことば」が「初めからあったもの」であるということについては、一見、この手紙の記述が福音書の記述と類似関係にあるように思える。また、「いのちのことば」が「私たち[ヨハネたち]が聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」であるという描写は、福音書1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」という記述とよく似たことを言っているように思える。ただし、手紙の方がより具体的、かつ私的な表現が使われていることがわかる。
 一方で、手紙と福音書の序文との間には大きな違いも見られる。それは、手紙の「いのちのことば」という表現である。福音書の序文では、「ことば」が人格的に扱われていることは明白である。一方、手紙の序文では、明らかに人格的に扱われているのは「いのち」である(1:2)。
 したがって、「いのちのことば」が何を示しているのかということについて、2通りの解釈を導き出すことができる。第一の解釈は、「いのちのことば」が人格的「ことば」、すなわちイエス・キリスト御自身を指しているという解釈である*4。第二の解釈は、「いのちのことば」が人格的「いのち」の「ことば」、すなわちイエス・キリストのことば(メッセージ)、あるいは福音のメッセージを指しているという解釈である*5。各立場の解釈をふまえた上での「いのちのことば」の解釈については、後日「補足 1:1『いのちのことば』の意味について」として別個記事を投稿する予定である。ここでは結論として、「いのちのことば」は「福音のメッセージ」という意味に強調が置かれつつ、イエス御自身という意味をも包含し得る表現であると言うに留めたい。

 ストットは「福音が宣言し提示するものは、キリストにあるいのちである」と述べている*6。確かに、イエスが伝えたメッセージである福音は「永遠のいのち」を伝えるものである(ヨハ17:2–3;20:31)。そして、「永遠のいのち」とは「唯一のまことの神である[御父]と、[御父]の遣わされたイエス・キリストとを知ること」である(ヨハ17:3)。一方で、「いのち」はイエス御自身のことでもあり(ヨハ14:6;Iヨハ1:2)、イエスは「ことば」が受肉された方でもある(ヨハ1:14)。したがって、福音とは御子イエス・キリストにある「いのち」を提示する「ことば」である。そして、イエス御自身が「いのち」であるが故に、福音はイエス御自身を宣言する「いのちのことば」である。さらに、イエスは神の「ことば」が受肉された方なのである。

 さて、この「いのちのことば」は、「初めからあったもの」である。福音書の序文においても「初めに」という表現が使われていることは、既に指摘した通りである。福音書における「初め」は、「ことば」すなわち御子イエスが「創造の以前からおられた」という「御子の永遠的先在性」を示している*7。しかし、スミスは、手紙の序文の「初め」については(福音書と同様な意味が暗示されている可能性は認めつつも、)「強調点はただちにキリスト教の諸起源に移っている」と述べている*8。これは、次のように換言することもできる。手紙における「初め」は、手紙の読者たちが信じているキリスト教の「初め」を指している。このキリスト教の「初め」とは、イエス・キリストの公生涯に遡ることもでき、また信者たちのキリスト教体験の「初め」として捉えることもできるだろう。確かに、「初めからあったもの」の後に続くのは「私たち[ヨハネたち]が聞いたもの、……じっと見、手でさわったもの」であり、それらの関係詞はいずれもヨハネたち(使徒たち)の体験を示している。
 しかし、「いのちのことば」において「ことば ho logos」が特別な意味で用いられており、イエス御自身と福音のメッセージの両者を包含し得る概念であるという先の解釈を前提とするならば、手紙の「初め」は福音書の「初め」と同じ意味に捉える方が妥当だろう。そして、手紙序文のテキストの「御子であるお方が人として来られた」という主題にとっては、序文の「初めに」は福音書のそれと同じ意味で解釈する方が調和するものと考えられる。なぜならば、御子が人として来られたという主題は、「永遠なるお方が人間の時間に入り、人類の前に現れた」*9という事実を強調しているからである。
 したがって、ヨハネは次のように教えているのだろう。「いのちのことば」は「初めからあったもの」、すなわち創造以前から既におられた方であり、またその方の「ことば」でもある*10

 そのような「いのちのことば」のことが「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」と表現されているところに、永遠なる方が有限の人間の世界に体験できる形で現れた、という福音のメッセージの本質が表されている。しかし、それら4つの関係詞について具体的に見ていく前に、ここでの「私たち」すなわち「ヨハネたち」とは、誰を指しているのかを明らかにしたい。「初めからあったもの」の後に続いている3つの関係詞は、全て人間の五感による「いのちのことば」の体験の証言である。ヨハネは当然、イエスの直弟子として、「いのちのことば」を体験した。他にも「いのちのことば」を体験した者は多くいただろう。ただ、この手紙では多くの場合、「私たち」は証言をするに相応しい者たち、また権威ある者たちとして読者に語りかけている。「いのちのことば」を体験した者であり、それを証言するに相応しい、権威ある者たちとは、ヨハネが属する使徒集団と捉えることが妥当である。

 さて、「いのちのことば」は使徒たちが「聞いたもの」である。彼らはイエス御自身から福音のメッセージを直接「聞いた」。彼らはそのメッセージから、イエスにこそいのちがあること(ヨハ6:53–58)、そしてイエス御自身がいのちであること(ヨハ14:6)を知ったのである。
 また、「いのちのことば」は使徒たちが「目で見たもの」である。彼らは「見た heōrakamen」だけでなく、「いのちのことば」を「じっと見た etheasametha」。ここで使われているtheaomaiという動詞は、ヨハネ福音書1:14「(私たちはこの方の栄光を)見た」でも使われている。この動詞(NASB、NIV、およびNRSVではlooked at、ASVではbeheldと訳されている)が使われていることにより、使徒たちはイエスをただ「目で見た」だけでなく、より近くで見て、じっと観察したのだということが強調されている*11
 さらに、観察というキーワードは「さわった epsēlaphēsan」という動詞(psēlaphaō)にも見出すことができる。ストットにおけるBrookeの引用によれば、この動詞は「ちょうど盲人や暗がりで人が『手探りで捜す』のを意味することばであり、ここでは『手に取る、手を触れる』の意味であって、『よく確かめる』の意にも用いられる」*12。たとえば復活されたイエス御自身は、この動詞を使って「わたしにさわって、よく見なさい」と言われた(ルカ24:39)。主はこの動詞によって、復活後も御自分が肉や骨を持っていることを示された。もしかしたら、ヨハネはここでそのことを意識していたのかもしれない*13
 ここで、「聞いたもの」〜「じっと見、また手でさわったもの」という3つの関係詞は、意図的に、後になるほど具体的になっていくように使われているものと考えられる。
 永遠的に先在しておられた神御自身である「ことば」なる御子が、肉や骨を持つ人間となり、我々の世に来られた。ヨハネは4つの関係詞を用いて、福音書1:14と同様に、この福音の持つ衝撃的なメッセージを強調している。いや、手紙の序文は、福音書よりもさらに表現が私的であるが故に、使徒たちが受肉した御子を直接体験したのだということを鮮烈に証言している。

 また、これは「神であるイエス・キリストが人間でもあったことを拒否していた」ヨハネの論敵たちに対する反論の性格も持っている(はじめに B.参照)。そのような異端者たちが問題を起こしはじめていた当時、ヨハネはイエス御自身を「聞き、見、じっと見、手でさわった」当事者として、神が人として来られたという真理を読者たちに思い起こさせようとしているのである。

1章2節

 この節は確かに1節と3節の挿入句であるが、軽視してはならない。ヨハネはここで、「いのち」について詳しく述べざるを得なかったのだろう。彼はこの手紙で、「いのち」から賜った「ことば」について伝えようとしているからである。
 ヨハネは「このいのちが現れ」たのを「見た heōrakamen」。この動詞horaōは、1節の「(目で)見た」と同じものである。彼はここで、彼ら使徒たちが「いのち」を「見た」こと、すなわち人となって来られた御子の目撃者であることを再度強調している。

 「いのち」が現れたという事実は、イスラエルのメシアを待ち望んでいた使徒たちにとって衝撃的な事実であった。しかもそれを至近距離で目の当たりにしたヨハネは、その「いのち」について証をし、伝えざるを得ないのである。それによって、ヨハネは読者に「永遠のいのち」を伝えようとしている。その「永遠のいのち」とは、「御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのち」である。またしてもヨハネは、ここで御父とともにおられた御子なる神が、世という有限の世界に「人となって」(ヨハ1:14)現れたことを強調している。
 ここでの「永遠のいのち」は、イエス御自身を指しているのであろう。しかし、ヨハネがここで伝える「永遠のいのち」を信じ、受け入れた者は、自ら「永遠のいのち」を持つようになる。それは、イエス御自身に「いのち」があるからであり、「永遠のいのちとは、……唯一まことの神である[御父]と、[御父]の遣わされたイエス・キリストとを知ること」だからである(ヨハ17:3)。

*1:Glenn W. Barker, 1 John, Expositor’s Bible Commentary, vol. 12, Frank E. Gaebelein, ed. (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1981) 306; ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)64頁

*2:Brooke Foss Westcott, The Epistles of St John: The Greek Text with Notes and Essays, 3rd ed. (Cambridge and London: Macmillan and Co., 1892) 4.

*3:Ibid., 3.

*4:Ronald Sauer, "1 John," The Moody Bible Commentary, Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham, eds. (Chicago, IL: Moody Publishers, 2014) 1975; 中川健一『ヨハネの手紙 第一「救いの確信を得る喜び」』2016年聖書フォーラムキャンプ配布資料(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2016年)3頁

*5:ストット『ヨハネの手紙』74–77頁;また、D・M・スミス『現代聖書注解 ヨハネの手紙1、2、3』新免貢訳(日本基督教団出版局、1994年)65頁参照

*6:ストット『ヨハネの手紙』67頁

*7:Darrel L. Bock, Jesus According to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2002) 412; ストット『ヨハネの手紙』66頁

*8:スミス『ヨハネの手紙1、2、3』66頁

*9:ストット『ヨハネの手紙』66頁

*10:Barker, 1 John, 306.

*11:Westcott, The Epistlesof St John, 6. およびストット『ヨハネの手紙』67頁参照

*12:ストット『ヨハネの手紙』67頁参照

*13:Westcott, The Epistles of St John, 5–6; Barker, 1 John, 307.