「聖書信仰」を考える(前編)
あけましておめでとうございます。10月以来の投稿となってしまいました。ヨハネの手紙第一の釈義は着々と進めてますし、イスラエル論や携挙論なんかも少しずつ勉強を進めているのですが、何かとバタバタしておりまして、投稿できずにおりました。手軽なものも交えながら、なるべくコンスタントな投稿を心がけたいところではあるのですが……
この久々の記事かつ新年の初投稿記事では、最近出版された聖書神学舎教師会編『聖書信仰と諸問題』(いのちのことば社、2017年)のレビューも含めて、「聖書信仰」について最近考えたことを分かち合わせていただきたいと思います。
トピック
- 1.はじめに
- 聖書信仰
- 聖書の無謬性(infallibility)と無誤性(inerrancy)
- 保守的聖書信仰
- 2.『聖書信仰とその諸問題』についての簡易な書評
ヨハネの手紙第一 覚書き(9)1章5–7節
ヨハネの手紙第一 覚書き(8)補足:「いのちのことば」の意味について(その3)
ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)
前々回、前回から引き続き、「補足」として1:1の「いのちのことば」という表現の意味について取り上げています。前々回では「いのちのことば」=イエス・キリストご自身とする解釈を紹介しました。そこでは、第一ヨハネ1:1の「いのちのことば」は、ヨハネ1:1の「ことば」と同じ意味で捕らえられています。
そこで、前回ではヨハネ1:1の「ことば ho logos」の意味を(旧約聖書、旧約聖書外典、古代ユダヤ教文書などの情報もふまえて)考えていきました。要約は次の通りです。
- 「ことば」には神の発言と業が含まれている。
- 「ことば」は神の言葉であり、同時に人格的存在である。
- 「ことば」は神とは区別される存在であり、同時に神と同一視される存在である。
今回は「いのちのことば」に関する解釈の第二の立場(いのちのことば=イエス・キリストの福音のメッセージと考える)を紹介した後、第一の立場と第二の立場の中間の立場を取り上げます。その後、「いのちのことば」の解釈について私自身の結論を述べています。
トピック
- 補足 1:1「いのちのことば」の意味について(続き)
- D.第二の立場:「いのちのことば」はイエス・キリストの福音のメッセージを指している
- ストットの解釈
- Barkerの解釈
- E.第三の立場:中間的立場
- Westcottの解釈
- Vincentの解釈
- スミスの解釈
- F.結論
- D.第二の立場:「いのちのことば」はイエス・キリストの福音のメッセージを指している
ヨハネの手紙第一 覚書き(7)補足:「いのちのことば」の意味について(その2)
ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)
前回から引き続き、「補足」として1:1の「いのちのことば」という表現の意味について取り上げています。前回は「いのちのことば=イエス・キリストご自身である」という第一の立場を紹介しました。その立場では、ヨハネの福音書1章における「ことば」とヨハネの手紙における「いのちのことば」とは同じ意味であると考えられています。したがって、「いのちのことば」の意味を考えていく上では、ヨハネの福音書の「ことば」の意味をも考えていく必要があります。そこで前回では、ヨハネの福音書の「ことば」は旧約聖書の背景やユダヤ教的背景と照らし合わせて理解されるべきだ、ということを指摘しました。
今回はその続きとして、旧約聖書、旧約聖書外典、そして古代ユダヤ教文献であるタルグムにおける「ことば」の意味を確認していきます。
トピック
- 補足 1:1「いのちのことば」の意味について(続き)