軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

聖書における「イスラエル」の意味(2)

 前回の記事では、「イスラエル」の意味を確立することの重要性について述べた後、その意味がどのように考えられているのか、幾人かの神学者の考えをピックアップして紹介しました。

balien.hatenablog.com

 これ以降は数回連続で、旧新約聖書から「イスラエル」の意味についてワードスタディを行っていきたいと思います。今回は、旧約聖書編のその1です。モーセ五書〜バビロン捕囚以降に至るまでの「イスラエル」の意味を見ていきます。

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聖書における「イスラエル」の意味(1)

 これまで、「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?」という問題について扱ってきました。この問いが関わってくる最大のテーマは、「イスラエル」という用語の意味です。「イスラエル」についての考え方(イスラエル)は、前回まで見たような旧新約聖書の関わり方をどのように考えるかによって規定されていきます。
 今回はイスラエル論に関する神学的主張の比較を取り上げますが、次回以降は聖書本文から「イスラエル」という用語についてワードスタディを続けていきます。
 今回はいつもより少々長い記事となってしまいましたが(15,000字超え!f^_^;)、ここで取り上げた神学者たちの主張は、分割せずにひとまとめにしてしまった方がよいと判断しました。その内容は最後の「今回の結論」でまとめていますので、そちらを御覧になってから各主張を読んでいただけると分かりやすいかと思います。

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旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その2)

 前回、「旧約聖書の『意味』は新約聖書の啓示によって変更されたのか?」の前後編記事の補足として、「新約聖書による旧約聖書の使用法」についての諸見解を概観しました。   balien.hatenablog.com

 今回は、各見解の問題点について述べた後、改めて「後編」で紹介した筆者個人の考える「解釈学的枠組み」に触れたいと思います。

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2016年フルクテンバウム博士セミナーを受講して

 ここ数年、ハーベスト・タイム・ミニストリーズ主催のアーノルド・G・フルクテンバウム博士のセミナーに参加し続けてきました。その博士のセミナーも、残念ながら今年が最後とのこと。寂しさを覚えながら、5月3、4日の東京会場でのセミナーに参加してきました。
 記念すべき最終回のテーマは「ディスペンセーショナリズムとは何か─体系的な聖書理解を求めて─」というものでした。セミナーの内容は膨大なものなので、とても要約して紹介することはできませんが*1、そこで考えたこと、感じたことを大雑把に書き留めておきたいと思います。

*1:セミナーの前半部分で扱ったディスペンセーション主義の定義や歴史については、本ブログのカテゴリ「ディスペンセーション主義について」内の、「ディスペンセーション主義とは何か(1)〜(8)」をご覧ください。

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旧約聖書の「意味」は新約聖書の啓示によって変更されたのか?(補足その1)

 前回の前後編記事の中で、「新約聖書による旧約聖書の使用法(もしくは引用法)」の中でも、「新約聖書の著者たちは当時(第二神殿期)のユダヤ教における解釈法(もしくは引用法)を用いていた」という見解を取り扱いました。
 しかし、「新約聖書による旧約聖書の使用法」については、他にも多種多様な見解が提示されています。そこで、本記事では前回の補足として、「新約聖書による旧約聖書の使用法」についての諸見解の概観を試みたいと思います。これによって、福音主義神学におけるこのテーマに関する議論の整理のため、少しでもお役に立てれば幸いです。
 なお、各見解について問題点があるのですが、それは後日取り上げる予定です。

トピック

  • 新約聖書による旧約聖書の使用法」の7つの立場
    • 1. 単一の意味/多様な適用
    • 2. 人間の著者が込めた意味+神が込められた隠された意味
    • 3. 新約聖書の著者は当時のユダヤ教の解釈法を使用した
    • 4. 正典的解釈
    • 5. 霊感されたSensus Pleniorの適用(Inspired Sensus Plenior Application)
    • 6. 歴史的・釈義的&神学的・正典的解釈
    • 7. 新約聖書による旧約聖書の再解釈
  • Fruchtenbaumの立場
  • 結論
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