軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

ヨハネの手紙第一 覚書き(12)2章3–4節

 ヨハネの手紙第一を学んでおりまして、私個人のノートをそのまんま公開しております。(↓前回)

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トピック

§2 救いに関する3つの検証(2:3–29)【その1】

 1:5–2:2において、ヨハネは「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」という「知らせ」こそがイエスのメッセージの要約であると述べていた。彼はその「知らせ」からの発展として、異端者たちの偽りの主張に反駁し、真に神を信じた者であればどのような状態にあるのかを論じた。真の信者であれば、「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んで」はいないはずである(1:6)。信者は、「神が光の中におられるように、……光の中を歩んでいる」はずである(1:7)。なぜなら、信者は御子イエスが「なだめの供え物」であることを受け入れ、既に「罪と死の原理」(ロマ8:2)からは解放されているからである。しかし、真の信者であれば、自らになお罪の問題が残されていることも認めているはずである(1:8、10)。信者は自らの抱える問題を認めているからこそ、神の御前で「自分の罪を言い表」し、赦しを受けることができる(1:9)。また、信者のためにはイエス御自身が「御父の御前で弁護してくださ」っている(2:1)。それらのことにより、信者は光である神との交わりを回復していただけるのである。
 ヨハネはイエスのメッセージの要約、異端者たちへの反駁、そして真の信者が神との交わりおよび罪の問題についてどのような認識を持つべきかといった事柄を導入部として述べた後、信者の救いに関する検証を展開し始める。それは、読者の救いに対するさらなる確信を提供するためである。それらの検証は、(1)道徳的検証(2:3–6)、(2)社会的検証(2:7–17)、(3)神学的検証(2:18–29)によって構成されている*1。そして、「この手紙のこれ以降の部分には、以上の三点に関する詳細な説明と適用が述べられている」*2

1.道徳的検証:従順(2:3–6)【その1】

3節

 「神と交わりがある」と言っていながら「罪はない」「罪を犯していない」と主張していた異端者たちについて、ヨハネは彼らが「偽りを言って」おり、「やみの中を歩んでいる」と断言していた(1:6、8、10)。それに対して、信者が「神を知っている」のだということは、その人が「神の命令を守」っているかどうかによって判断される。
 新改訳および新共同訳の訳文で2度登場している「神」という語は原文ではautonおよびautouで、これは男性形の代名詞である。したがって、1:5以降でそうであったように、この語が御父を指しているのか、それともイエスを指しているのかということは、文脈によって判断される。ただし、おそらくヨハネは御父もイエスも同一視しているのであって、代名詞がどちらを指しているのかはそれほど問題ではない、ということも既に1:5を扱う際に述べた通りである。
 この手紙において、ヨハネは「私たちは……ことがわかります」という言い回しを繰り返し使っている。「わかります ginoskomen」は動詞ginōskōの現在時制であり、「知るようになる」という意味を持つ*3。他の箇所において「知る」などと訳されている別の語であるoidaは「知識を得る」、「理解する」といった意味を持っている*4のに対し、ginōskōは経験による体験的理解/知覚を意味している言葉である*5。いずれの形にしろ、「知る」や「わかる」などと訳されている動詞は、「ヨハネによる福音書ヨハネの手紙1に確かにしばしば、それどころか、それがまたかなりよく見られる新約聖書の他の諸文書よりもさらに頻繁に出てくるのである。神とキリストに関する認識が、そういうわけで、ヨハネ文学の一つの大きな特有の主題となっている」*6
 ここでは、「神[彼]を知っている egnōkamen auton」も、「わかります ginoskomen」もともにginōskōが用いられている。ただし、前者は完了時制であり、後者は現在時制となっている。すなわち、私たちはある行動によって、既に私たちが神を経験的に知っているのだということを体験的に理解し続けていくことができるのである。行動によって「神の認識」が確証されることは、「行いによる救い」を教えているわけではない。むしろ、既に神の恵みにより救われており、まことの神を認識しているのだということが、行動によって確証されるのである。
 それでは、まことの信者においては、どのような行動によって「神を知っていることがわか[る]」のだろうか。それは、「私たちが神の命令を守る 」ことによるのである。NASBにおいて「we obey His commandments」と訳されているように、原文では「命令」あるいは「掟」(新共同訳)が複数形で表されている。ヨハネが御父と御子とを同一視して「彼」という代名詞を用いている可能性を考えると、ここでの「神の命令」は「イエスの命令」と換言することもできるだろう。では、この「神の諸々の掟」あるいは「イエスの諸々の掟」*7とは何を指しているのだろうか。ヨハネ文書の文脈で考えると、まずイエスは過越の食事の席で「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という「新しい戒め」を与えられた(ヨハ13:34;15:12)。それに続いて、福音書13–16章ではイエスにとどまること、またイエスのことばを守ることが表現を変えて何度も命じられている。さらに、その文脈において使徒たちが聖霊によって「すべてのことを教え」られるだろうという約束(14:26など)が与えられている。以上をふまえて考えると、使徒たちの(あるいは使徒的権威のもとで書かれた)書簡*8において与えられている諸々の命令は、聖霊により使徒たちを通して私たちに与えられた「イエスの諸々の掟」であると捉えてよいものと考えられる。パウロはガラテヤ人への手紙において、モーセの律法はもはや信者を拘束する規律ではなくなったと説いている(ガラ3:23–25)。その同じ手紙において、彼は「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」と命じている(ガラ6:2;Iコリ9:20–21参照)。イエスの血が流されたことによって新しい契約が締結されて以降(ルカ22:20)、私たちには「イエスの諸々の掟」から成る「キリストの律法」が与えられているのである*9。そして、その「諸々の掟」は、「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という一つの「新しい掟」に集約されている。以上のことから、まことの信者たちは、「イエスの諸々の掟」を守ることにより、「神を知っていることがわか[る]」のである。
 しかしながら、ヨハネは既に、まことの信者も罪を犯すのだということを教えていたではないか。そうであるならば、完全に「神の命令を守る」ことができる者は誰一人としていないはずである。では、イエス・キリストの福音を信じて受け取っていたとしても、誰一人として神を知ることはできないのであろうか。ここでの「守る tērōmen」には「注意深く、目を離さないで従う」という意味合いがある*10。Lawによれば、これは「例として、船乗りが風の吹く方向や海流を注意深く観察し、それらの方向に従って行く」というような場合に用いられる。この動詞は、「道徳的基準に単に外面的に沿っているということを示しているのではな」いのである*11。さらに、ここではこの動詞の時制は現在形である。すなわち、私たちは神の命令に「注意深く、目を離さないで従」い続けることによって、神を知っているということを体験的に理解し続けていくのである。
 私たちはここで、信者が本来的に罪とは無関係でありながら、信者でも罪を犯す可能性があるという両方の概念をヨハネが真理として教えていたことを振り返る必要がある。また、完全に神の御心に従って地上生涯を歩んだ方はイエスただお一人であることをも思い出す必要がある。私たちはそのような「正しい方」であるイエスの御業によって「罪と死の原理」から解放されたのだから、神の命令を守ることで、自分が神を知っているのだと認識することができるのである。しかし、罪を犯したとき、そこに汚れがもたらされ、神との交わりは不完全なものとなってしまう。ヨハネは、そのような状態は「自分の罪を言い表す」ことで解決されると述べていた。それは、神の御前に自分が罪を犯したということを認めることであった。私たちが自分の犯した罪を認めることも御霊の働きによるものならば(1:8の注解を参照)、御前に罪を「言い表す」こともまた、神の命令に「注意深く、目を離さないで従う」ことなのである。以上のことから、「ヨハネが言っている意味は、神の命令を完全に守った人ということではなく(そのような人は世界中のどこにもいない)、弱さを持った人間ではあるが、精一杯神に従って生きようとしている人のことである」*12

4節

 ヨハネは、3節で教えていた内容を、ここでは否定的に表現している。3節では、信者は神の命令──すなわちイエスの諸々の掟もしくはキリストの律法──を守ることによって、自分が神を知っているということを経験的/体験的に理解することができるのだ、ということが教えられていた。ここでは逆に、「神の命令を守らない者」のうちには真理がない──すなわち、彼は神を経験的/体験的に知ってはいないのだ、ということが宣言されている。
 「神を知っていると言いながら、その命令を守らない者」という表現は、1:6の「神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいる」者を想起させる。この手紙が異端的教理の勃興に直面した共同体に宛てられて書かれているという背景から考えると、4節はこの手紙における仮想論敵たる異端者たちへの反駁となっているものと考えられる。
 異端者たちは「神の命令」を実行しないまま、やはりginōskōを使って「神[彼]を知っている egnōka auton」と言っていたようである。これは、現代の注解者にとって、異端者たちにグノーシス主義的な性質があったのではないかと想像させる*13グノーシス主義者たちは自分たちこそが神に関する真の霊的知識 gnōsisを持っていると主張したが、このgnōsisginōskōから派生した語である*14。したがって、ヨハネは3節と4節において、正統的信者と異端者の両者における「神の認識」の対比を展開しているものと考えられる。その対比により、彼は正統的信者の「神の認識」がいかに確証されるのかということを、異端者の起こす問題に直面している読者たちに対して強調しているのである。
 本節における動詞の時制について観察してみると、ここでは3節と同様に、「神を知っている」は完了時制とされており、「(その命令を)守らない ho mē tērōn」ではtēreōが現在能動分詞として使われている。したがって、4節で問題とされている異端者たちは、「私は既に神を知っている」と言いながら、「神の命令を守らないことを続ける keeps on not keeping [God’s] commandments」者たちなのだということになる*15。彼らは「神を知っている」と言いながら、継続して、しかも能動的に神の命令を守ることを拒否し続けている者たちなのである。
 信者が罪を犯したことによって一時的に光なる神との交わりが断絶してしまう時、確かにそれによって、「神を知っていることがわかる」という体験的理解の継続は断たれてしまう。しかし、それによって「神を(既に)知っている」という事実が変わるわけではなく、そのような一時的断絶には回復の道も備えられている(1:9)。だが、ここで問題にされている異端者たちは、自分たちが神の命令を守ることを拒否し続けているにも関わらず、「私は既に神を知っている」と言っているのである。彼らにとっては、「神を(既に)知っている」という事実──すなわち、「唯一のまことの神である[御父]と、[御父]の遣わされたイエス・キリスト」を知っている(ヨハ17:3)という事実──そのものが欠けているのである。
 以上のような異端者たちについて、ヨハネは彼らが「偽り者 pseustēs」であると断言している。1:10の注解で指摘したように、イエスはこの語を悪魔に適用している(ヨハ8:44)。1:6からこれまで指摘され、反駁されてきたような異端者たちの性質および教えに含まれている「偽り」は、まさにサタンの性質そのものである(IIコリ11:14;IIテサ2:9–10参照)。なお、ヨハネは後に3:8以降で、異端者たちとサタンとの関係について直接的に指摘している。

*1:Robert Law, The Tests of Life: A Study of the First Epistle of St. John (Edinburgh: T. & T. Clark, 1909), 6–7. ただし、Lawは神学的検証が2:18–28までであるものと解釈している。

*2:ジョン・R・W・ストット『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳(いのちのことば社、2007年)99頁

*3:Joseph H. Thayer, Thayer’s Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded with Strong’s Concordance Numbers, 11th printing (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 2014[1896], G1097.

*4:Thayer, G6063

*5:M. R. Vincent, Word Studies in the New Testament, in PC Software e-Sword XのIヨハ2:3注解を参照のこと。

*6:D・M・スミス『現代聖書注解 ヨハネの手紙1、2、3』新免貢訳(日本基督教団出版局、1994年)91頁。Blue Letter Bibleにおいて閲覧することができるNASB Greek Concordanceによれば、この手紙においてginōskōは25回(2:3、4、5、13、14、18、29;3:1、6、16、19、20、24;4:2、6、7、8、13、16;5:2、20)、oidaは15回(2:11、20、21、29;3:2、5、14、15;5:13、15、18、19、20)使われている。

*7:スミス『ヨハネの手紙1、2、3』91頁

*8:12使徒やパウロ、ヤコブ以外の筆による書(マルコの福音書、ルカ文書、ヘブル人への手紙、ユダの手紙)も使徒的権威のもとで書かれたという見解は、近年ではRoger Nicole, “The Cannon of the New Testament,” Journal of the Evangelical Theological Society, 40(2) (March 1997), 200などに見られる。Simon Kistemaker (“The Canon of the New Testament,” Journal of the Evangelica Theological Society, 20[1] [March 1997], 3–14)やRobert L. Thomas (“Correlation of Revelatory Spiritual Gifts and NT Canonicity,” The Master’s Seminary Journal, 8[1] [Spring 1997], 5–28)らの見解では、特にルカ文書とヘブル書についてはNicoleのように断定的ではない。しかし、キリストの権威(Kistemaker, 9–10)やキリストの体なる教会に与えられた預言の賜物(Thomas, 24)などを根拠として、それらの書もまた霊感された書であり、結論としては使徒的影響下にある書に含められている。なお、新約聖書正典の問題についてはヘルマン・リダボス新約聖書正典」内田和彦訳『聖書論論集』メリル・C・テニー=カール・F・H・ヘンリー共編、舟喜順一訳編(聖書図書刊行会、1974年)347–66頁も参照のこと。

*9:Mooは次のように述べている。「キリスト者はもはやモーセの律法に縛られてはいない。キリストがその成就をもたらしたからである。しかし、クリスチャンは『神の律法 God’s law』(Iコリ9:20–21;Iコリ7:19の『神の命令』および第一ヨハネのpassim参照)に縛られている。『神の律法』はモーセの律法ではないが、しかし『キリストの律法』である(Iコリ9:20–21;ガラ6:2)。それが[モーセの]律法の成就、telosであるキリストのものであるが故に、キリスト者は[キリストの律法に]縛られているのである。」(Douglas J. Moo, “The Law of Moses or the Law of Christ,” Continuity and Discontinuity: Perspectives on the Relationship Between the Old and New Testaments, ed. John S. Feinberg [Wheaton, IL: Crossway, 1988], 217.)モーセ契約のもとで与えられた(モーセの)律法実行命令と、新しい契約のもとで与えられたキリストの律法を守ることとの間では、大きな相違点がある。それは、新しい契約のもとでは信者に聖霊の内住が与えられ、それによってキリストの律法が「彼らの心に」与えられているということである(エレ31:33;エゼ36:25–27;ロマ8:2;IIコリ3:3;ガラ5:22–23;ヘブ8:10;10:16)。キリストの律法については他にも以下の文献を参照のこと。F. F. Bruce, The Epistle to the Galatians, New International Greek Testament Commentary (Grand Rapids, MI: Wm. B. Eerdmans Publishing Co., 1982), 260–61; Arnold G. Fruchtenbaum, Issraelology: The Missing Link in Systematic Theology, rev. ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1992), 633–34, 650–51; Moo, Galatians, Baker Exegetical Commentary on the New Testament, eds. Robert W. Yarbrough and Robert H. Stein (Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2013), 376–78.

*10:Thayer, G5083; Law, The Tests of Life, 211.

*11:トットヨハネの手紙』101頁

*12:同上;カルヴァンからの引用である。

*13:Iテモ6:20bでは、パウロが「また、まちがって『霊知 gnōseōs』と呼ばれる反対論を避けなさい」と書いている。ここでVincentは、パウロ時代既に原グノーシス主義的な異端が教会における脅威になっていたものと考えている(Word Studies in the New TestamentにおけるIテモ6:20b注釈、およびコロ2:8参照)。

*14:Thayer, G1108.

*15:A. T. Robertson, Word Pictures of the New Testament, in PC Software e-Sword Xにおけう該当聖句の注解を参照のこと。