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balienのブログ

キリスト教(神学)に関する雑感・情報などをメインにまとめていきたいと思います。

教会と“神の御国”の関係

前回の記事に引き続き、米国The Master’s Seminaryの神学教授、Michael J. Vlach博士のブログから、近年流行の神学的議論において有益であると思われる&彼の新著He Will Reign Foreverの紹介にも繋げられるような記事を翻訳してご紹介したいと思います。

元記事はこちら↓

mikevlach.blogspot.jp

Michael J. Vlach, He Will Reign Forever: A Biblical Theology of the Kingdom of God (Silverton, OR: Lampion Press, 2017)の紹介記事についてはこちら↓

balien.hatenablog.com

今回ご紹介するのは、"How the Church Relates to God’s Kingdom Program"(教会は神の御国の計画とどのように関係しているのか)という記事です。こちらはHe Will Reign Forever, pp. 540–42からの引用になりますので、本書のサンプルとしてもお楽しみいただければと思います。

「神の御国は、将来においてこの地上で実現する」という視点から教会と御国との関係が論考されているのですが、「現在の世における教会の第一の責務は、福音を宣べ伝え、人々を弟子とすることである」という当たり前のような考えに改めて目が開かれたような思いがしています。特に、左記の文章に続く「しかし、イエスが戻って来られるまでの今の世においては、教会の使命は文化や社会を変革することではない」という部分からは(太字強調は私による付加です)、まさに今政治的激動を経ている米国に住んでいる著者の実感を感じさせられます。

「神の御国」が聖書のストーリーラインにおける重要な主題であるからこそ、私たちは教会論を考える上でも、この神の御国との関係から見ていくことが大事なのかもしれません。

(※)なお、本文中の太字は原文における斜体強調部を示しています。また、脚注は訳者による補足であります。

教会と神の御国の計画はどのように関係しているのか

How the Church Relates to God’s Kingdom Program

by Michael J. Vlach (Twitter: @mikevlach)

以下は私の著書 He Will Reign Forever: A Biblical Theology of the Kingdom of God (Lampion Press)から、教会が神の御国とどのように関係しているかについての短い抜粋である。これは本書の第35章"How the Kingdom Relates to the Bible’s Main Characters"の540–42頁に含まれている。

教会は神の御国の計画における重要な段階である。御国そのものは教会よりも広範な概念であり、被造物の全側面──物質的なものと非物質的なもの、人間と天使、動物、植物、無機物など──に対して主の主権を行使するための神のご計画に関係している。御国は諸契約、律法、救い、神の民などを含む、聖書の他の主要なテーマを包含している。教会は神の民という概念に含まれるカテゴリである。教会はイエスの二つの来臨[初臨と再臨]に挟まれている今の時代に存在する、ユダヤ人信者と異邦人信者から成る新しい契約の共同体である。イスラエルが不信仰により部分的かつ一時的な頑なさを経験している間[ロマ11:7;11;25–29参照]、教会は王であるイエスのメッセージを世界中に宣べ伝える権限を委任されている。

教会は御国ではないが*1、いくつかの重要な方向で御国の計画と関係している。第一に、教会は意識的にメシアであるイエスを信頼する者によって成り立っている。教会はその構成員がメシアとつながっているため、メシアによる救いを体験している。イエスは聖霊によって信者にバプテスマを施し、[彼らを]彼のからだである教会に加えられた。したがって、キリストの教会はイエスの権威の下に入っているのである。

第二に、イエスにある信者は「御国の子どもたち」である(マタ13:38)。これは、御国の実質的な建設はイエスの帰還を待っているものの、御国は彼らに属し、彼らは御国の一員であることを意味している。クリスチャンはサタンの支配下から御子の御国へと移されたのである(コロ1:13)。

第三に、教会の一員は神の御国と一貫した義を示す。王が彼の律法を示されたように(マタ5–7章 *2)、イエスは彼に従う者たちが「天の御国には入れない」ことのないよう(マタ5:20)、義を行うよう呼びかけておられる。これは他のクリスチャンを愛し、「義と平和と聖霊による喜び」(ロマ14:17)を実践することを含んでいる。

第四に、教会は人々が神の御国に入ることができるよう、御国のメッセージを宣べ伝える。したがって、イエスの福音を宣べ伝えることは、神の御国を宣べ伝えることを含んでいるのである。救いはある者に神の御国に入る資格を得させるので、救いと御国とは交差している。ある者が神の御国に入ることなしに新生することはない(ヨハ3:3)。教会の働きは「今の悪の世界」[ガラ1:4]の中で行われているため、福音/御国を宣言するという教会の任務は、サタンと世によって迫害されることが多い。

第五に、教会には現在の忠実な奉仕に対して、将来の御国における報いが提供されている。この報いは、イエスによる世界中の統治に加わることの保証と権利を含んでいる。パウロは「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」と言っている(IIテモ2:12)。これは諸国の民を支配する権威(黙2:26-27)とイエスとともに彼の座に着くこと(黙3:21)を含んでいる。教会のメンバーたちは、御国における報酬と保証が近づいているからこそ、今の苦しみと迫害とを耐え忍ぶことができるのである。

現在の世における教会の第一の責務は、福音を宣べ伝え、人々を弟子とすることである[マタ28:18–20参照]。教会のメンバーたちは、イエスが戻って来られるとき、回復された地球を治めることが定められている。しかし、イエスが戻って来られるまでの今の世においては、教会の使命は文化や社会を変革することではない。これは、教会が文化的/社会的な問題に関心を持たない、もしくは関係がないということではない。イエスが再臨されるとき、教会のメンバーたちはイエスが諸国の民を治められるという働きを援助することになる(黙2:26-27;3:21)。これは文化的/社会的な事柄を含んでいる。神は被造物全体を治めるよう人を創造された。そして、回復された人類は回復された地球を治めるようになる。こういった事柄が現在の世における教会の重要事項ではないにも関わらず、クリスチャンは彼らの世界観を周囲のすべての状況に適用するよう召されている。したがって、クリスチャンは神の栄光のために、音楽、芸術、建築、農業、政治、教育、スポーツといった文化の全側面に参加することができる(1コリ10:31)。もちろん、クリスチャンは神の義と最も調和するような価値観を選び、推奨していくべきである。しかし、真の文化的/社会的変革は今の悪の世に起こるのではないということも理解すべきである。こういったことは、イエスが再臨されるときに実現する御国を待たなければならない。

また、新約聖書はクリスチャンが仲間の信者たちの物質的な必要に応答しなければならないということを教えている。メシアであるイエスの二つの来臨の狭間で生きている者として、教会は文化と社会に関する二つの極端を避けるべきである。第一の極端は、教会がこれらの分野に関係がないかのように振る舞うことである。第二の極端は、教会の使命はイエスの再臨と御国の到来の前に世界を変革することだと見なすことである。

注記:He Will Reign Foreverについてさらに興味のある方は、ここをクリックしてページの下方に行くと、推薦文を含む38ページ分のサンプルを閲覧することができます。

*1:教会≠御国という関係については、以下についても参照のこと。George Eldon Ladd, A Theology of the New Testament, rev. ed., ed. Donald A. Hagner (Grand Rapids, MI: Eerdmans, 1993), 109–11.

*2:マタイの福音書5–7章の「山上の説教」に示されている道徳基準や倫理観については、それが主イエスが示されたものであるが故に、現在の信者/教会にも適用され得るという点ではほとんどの釈義者は一致している。しかしながら、それが厳密に教会の一員に課せられている律法なのかどうか、また神の御国とどのような関係にあるかということについては、釈義者により見解が分かれている。たとえば、Chaferはマタ5:17–19を根拠として、ここに示されているのは将来の千年王国において課せられる律法であると考えている(Lewis Sperry Chafer, Major Bible Themes, rev. ed., ed. John F. Walvoord [Grand Rapids, MI: Zonderva, 1974], 191)。Ryrieもまた山上の説教に示される教えが千年王国で成就するものであることを認めつつ、それが御国を待ち望む今の信者たちにも関係しており、適用され得る道徳律であることを主張している(Charles C. Ryrie, Dispensationalism, rev. ed. [Chicago, IL: Moody Publishers, 1995], 113–14;ただし、左記の文献においてRyrie自身が指摘しているように、Chaferも山上の説教に示される道徳・倫理基準が現在の信者に適用されることは認めている)。
 VlachはChaferやRyrieよりも一歩進んで、地上に御国が実現するのは将来であるが、信者たちは現在「御国の子どもたち」であるが故に、山上の説教の内容が適用されるのだとする解釈を提唱している(He Will Reign Forever, 301–2)。彼の立場では、山上の説教はChaferやRyrieの場合に比べてより直接的に現在の信者と関係している。これに類似している立場として、Vanlaninghamは山上の説教が「悔い改め、御国の到来に備えている者が、それを待ち望んでいる間どのように生きるべきかということに関するイエスの教え」であるとする解釈を示している(Michael G. Vanlaningham, “Matthew,” The Moody Bible Commentary, eds. Michael Rydelnik and Michael Vanlaningham [Chicago, IL: Moody Publishers, 2014], 1460)。
 他にも、内田はここに示されているのは「律法ではなく福音である」とし、「神の子となる条件ではなく、恵みにより神の子とされた者が天の父である神に似た者に変えられていく姿のサンプルである」としている(内田和彦「マタイの福音書」『新実用聖書注解』宇田進・富井悠夫・宮村武夫編[いのちのことば社、2008年]1300頁)。同様な考えについては、Ladd, A Theology of the New Testament, 124–25, 27を参照のこと。
 また、Fruchtenbaumは山上の説教が与えられた時にはモーセの律法が有効であったことに着目し、これを教会に与えられた戒律ではなく、メシアによるモーセの律法の正しい解釈であると考えている(Arnold G. Fruchtenbaum, Yeshua: The Life of Messiah From A Messianic Jewish Perspective, vol. 2 [San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2016], 273–75)。しかしながら、そこで教えられている倫理/道徳的規範は現代の信者に適用し得るものである。このような考えについては、John A. Martin, “Christ, the Fulfillment of the Law in the Sermon on the Mount,” Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for Definition, eds. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992), 248–63を参照のこと。
 このように山上の説教の意義については釈義者により多くの見解が提示されている。しかし、山上の説教がどのような形で教会と関係しているのであれ、この説教は信者たちに対して「この世の者たちとは異なってあわれみ深く、思いやり深く、寛大になるように」呼びかけている(Darrell L. Bock, Jesus According to Scripture: Restoring the Portrait from the Gospels [Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2002], 155)。この点においては、ほとんどの釈義者は一致することができるものと考えられる。