どうもお久しぶりです。
年度が明けて早速記事を書いてから、こんなことも書きたいな〜あんなこといいな〜できたらいいな〜とか考えてたら、いつの間にか上半期も終わりに近づいちゃってました。
去年の8月から、ヨハネの手紙第一の学び会のご奉仕をさせていただいておりまして、この間、ようやくその下準備が全て完了しました(学び会自体はまだまだ続いているのですが)。
そこで色々と感じたことがありましたので、ここに書き残しておきたいと思います。
ちなみに、スタディノートはブログにもアップしていたのですが、2:4で止まってますね…笑 感想上げる前にノート出せよって感じなのですが、溜まりに溜まってるのでどうしようか…f^_^;
ノート自体は(若干形式が変わりながらも)まとめてあるので、いつか何かしらの形でまとめて公開できたらいいな〜とぼんやり考えております。
さて、第一ヨハネの聖書研究を終えてみて、なのですが。
いくつかのトピックに分けて、雑感を書き留めておきます。
1.手紙の印象
手紙そのものの印象の前に……実は第一ヨハネって、すごく思い入れがある書なのです。
自由主義的な信仰から福音的な信仰に移って、初めて意識的にデボーションをするようになった時、使いはじめたデボーションガイドが取り上げていたのが第一ヨハネでした。初めて福音的な視点から丸々じっくり読んだのが、この手紙だったわけです。
その後は、ほとんどがキリスト者学生会(KGK)所属時の思い出ですね。KGKで出会った、とても尊敬している元主事の方がいらっしゃるのですが、その方を講師としてお招きした合宿に初めて参加したときに語られたのが、第一ヨハネからのメッセージでした。
その方の後で私の大学の担当主事になられた方についても、私が初めてその方から聞いたメッセージがやはり第一ヨハネからのものでした。
そして、大学院に進学した後、初めて後輩と聖書研究をしようとなったとき、長さがちょうどいいという理由で選んだのも第一ヨハネ。
修了後、社会人として初めて後輩たちと交わったときに聖書研究の題材として選ばれていたのも第一ヨハネ……
思い返すと、自分にとっていろいろな節目で学んだり、メッセージが語られたりしていたのが、この手紙でした。
自分のEvernoteに保存してある手紙のスタディノートを遡ってみましたら、この学びの準備を本格的に始めたのが2016年8月6日。で、最後のノートの最終更新日が今年の8月20日。決して毎日コツコツやっていたわけじゃなくて、平均しちゃえば週に1日費やすくらいのペースだったと思うのですが、1年以上かかっちゃったわけですね。
聖書のある書物をこうして1年以上かけてじっくり取り組んだのは、初めての経験でした。
しかも、とても思い入れのある書についてここまでじっくり取り組めたのは、この上ない喜びでした。
さて、実際に1年以上かけて学んでみた結果、この手紙の印象についてですが……
何といいますか、月並みな言い方ですけれど、書かれていることが深すぎてですね、未だに消化し切れていない感じがします。
パウロの手紙なんかも書かれていることは「深い」と思うのですが、内容がロジカルに整備されていることもあって、個人的には読みやすいのです。
それに比べてヨハネは、さらっと読めてしまうのだけど、じっくり考えようとすると簡単に先に進めない。理由の一つは、手紙自体がそれほど構成化されているように思えないからでしょうか。ノートをつけ終えた今、「この手紙はある程度の構造に基づいて取り組まれているが、それに縛られてはいない」というグレン・バーカーの考察に心から同意しています。「この手紙は思いつきから書かれたものだろう」と言ったのは、I・H・マーシャルでしたか。それも分からなくはないです。
一番しっくり来るのは、ロバート・ロウの「この手紙の構造は螺旋状だ」という考察です。まさにその通りだと思います。
私たちは神から生まれた者なのだから、互いに愛し合うべきである。
互いに愛し合うことによって、私たちは自分が神に留まっており、神もまた私たちに留まっておられることが分かる。
私たちが神に留まっており、神もまた私たちに留まっておられるなら、私たちは互いに愛し合うはずである。
私たちが互いに愛し合うのは、まず神の愛が私たちに示されたからだ。
私たちは互いに愛し合うことによって、私たちの内で神の愛が全うされるのである。
などなど……
「互いに愛し合う」っていうテーマを抜き出しただけでこれですよ。まさに螺旋状と言えるんじゃないでしょうか。
確かD・M・スミスが「第一の手紙に書かれているのは深遠な愛の神学だ」というようなことを書いていたと思いますが*1、ヨハネの手紙を読みながら抱いたのは、下を覗き込むと、果てしなくらせん階段が続いているというようなイメージです。
その一番下から、一筋の光が見えています。この光──手紙のメインテーマである、私たちは永遠の命を得ているという救いの確証──が見えているから、平安があります。その光は実際にこの目に届いているのですから、私は既に光の恩恵を受けているのです。でも、その光を全身に浴びて、じっくりと味わうに居たるまでの階段は果てしなく長く続いています。そして私は、行きつ戻りつ、今もゆっくりとその階段を下りているのです。この階段を下り終えたときには、光の中で、イエス・キリストに似た者として完成させられるだろうという希望を抱いて。
手紙を一通り学び終えてみて、ヨハネの愛の神学の深遠さに打ち震えていますが、自分のクリスチャン生活に対してチャレンジを受けているようにも感じています。
先ほど「互いに愛し合う」というテーマからいくつかの教えをリストアップしましたが、たとえばその中でも「私たちは神から生まれた者なのだから、互いに愛し合うべきである」という教え。ヨハネはさも当たり前のようにこれを言っているのですよ。で、読んでいる私たちはぐうの音も出ない。「そうだなぁ!アーメン!」と感動している自分がいれば、一方で、罪が示されて、痛みに悶えている自分もいることに気づくわけです。
もちろん、パウロの手紙を学ぶときも、罪が示されます。ただ、パウロの手紙が自分の罪深さにザクザク切り込んでくる感じだとしたら、ヨハネの手紙は、すっ、と突き刺さってくる感じだと表現すればよいのでしょうか。
優しくて、読者への愛に満ちあふれているし、その上言葉は単純なんだけれども、どんな説教よりも鋭いんですね。円熟したおじいちゃんのお説教って、こんな感じなのでしょうかね。
2.手紙のポイント
この手紙の中でも大きなポイントは、(1)偽りの教理に惑わされるな、という教えと、(2)クリスチャンの救いの確証というテーマではないでしょうか。
(1)偽りの教理に惑わされるな
以前スタディノートでも書きましたが、この手紙の背景には、(おそらくヨハネが巡回していた?)地域教会において異端者たちが偽りの教理を説き、分裂を引き起こしたという問題があったと思われます。ですからこの手紙では、「偽預言者」とか「多くの反キリスト」とか呼ばれる異端者たちの存在が示唆されています。
彼らの偽りの教理は、大別すると2つ挙げることができるでしょう。
1つ目は、罪に関する偽りです。異端者たちは、「罪を犯していない」というような、人間の罪の性質を否定するような主張をしていたようです(1:8、10)。さらに、彼らは神を愛していると言いながら兄弟姉妹を憎んでいました(2:9;4:20など)。こういった、罪を罪と認めていない姿勢もまた、罪に関する偽りだと言えるのではないでしょうか。
2つ目は、御子に関する偽りです。彼らは、ナザレのイエスと神的存在であるキリストとが同一の存在であるとは認めていなかったようです。彼らは、ナザレのイエスの上にキリストが降ったのであり、イエスはイエス、キリストはキリストだと考えていたのかもしれません。彼らは、「イエスは人として来られたキリストである」と信じていなかったのです(4:2参照*2)。
こうした偽りの教理は、今の時代にも見受けられるものです。ヨハネの手紙では、こういった偽りが論駁されています。それを学ぶことで、私たちは正統的な信仰が何であるか、確信することができるのです。
同時に、個人的には、自分の姿勢が吟味されているように思えました。口では神を愛していると言いながら、兄弟姉妹を愛することができているだろうか。イエスのように、互いに愛し合うことができるだろうか。
この手紙を読むとき、異端者への反駁だからといって、他人事のように読むことがないようにしたいものです。ヨハネは異端者たち自身ではなく、彼の「愛する子どもたち」に向けられているのだということは忘れてはならないな……と、準備をしながら幾度となく思い知らされました。
(2)クリスチャンの救いの確証
おそらくこの手紙のメインテーマは、「クリスチャンの救いの確証」です。手紙の5:13にはこう書かれています。
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(新改訳第三版)
読者は、「神の御子の名を信じている」人々です。そしてこの手紙が書かれたのは、読者たちが「永遠のいのちを持っていることを、よくわからせるため」なのです。
この手紙の中で論じられているのは、救いの確証は(1)神の命令を守っていることによって、(2)互いに愛し合っていることによって、(3)イエスが神の御子であると信じていることによって得られるということです。
この手紙から救いの確証というテーマについて学んでいる中で、2つのことにできるだけ注意し続けてきました。1つは、福音を信じ、イエスを救い主として受け入れた私たちは「永遠のいのちを持っている」ということです。イエスが私たちの罪のために死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられたということを信じている私たちは、神と和解させられているということです。
もう1つは、私たちが本当に信じているならば、信仰は行いとなって表されるはずだ、ということです。この点に気を払ってスタディノートをつければつけるほど、自分がいかに至らない者であるかが示されてきて、本当に辛くなりました。だからこそ先の「私たちは永遠のいのちを持っている」という点にも注意しなければならないのですが、この「本当に信じているならば、信仰は行いとなって表されるはずだ」という点も、決して忘れ去られてはならないのです。これが忘れ去られたとき、自分の姿勢が、どこまでも利己的な方向へ突き進んでしまうように思えるのです。
以上の2つの点を注意すればするほど、ヨハネの手紙で語られている聖霊の働きに希望が見えてきました。
4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。(新改訳第三版)
いまだかつて、神を見た者は誰もいません。だから、「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハ1:18)。
今もなお「いまだかつて、誰も神を見た者はありません」が、今は、私たちが互いに愛し合うなら、神の愛が私たちの内で完全なものとなり、「神は私たちのうちにおられる」ことがわかるのだとヨハネは言っています(4:12)。
しかし、私たちの愛は私たち自身から出ているのではありません。愛の実践によって神がご自身を示されるということは、私たちに与えられている御霊によるのです(4:13)。御霊は、私たちに対して「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」という体験的な知識を与えてくださいます。
結局のところ、私たちが実践するよう命じられている愛自体が、実際には私たちの内におられる神ご自身から与えられています。そして、私たちが御霊に導かれる通りにその愛を実践するとき、御霊は私たちに主ご自身とその愛を示されるのです。パウロがロマ5:5で言っている通り、「私たちに与えられた御霊によって、神の愛が私たちの心に注がれる」のです。
このような第一ヨハネにおける聖霊論を考えていて思ったのは、ヨハネが教える「救いの確証」の土台には、「新しい契約」の希望があるな!ということでした。
私たちの愛の実践の土台は、神への愛であり、さらにその愛は御霊によって与えられるものです。すなわち、私たちが神の命令を守っていくことは、御霊の働きによるのです。これは、イエスが人として遣わされてこられる前から、イスラエルの預言者たちの口を通して約束されていたことでした。エレミヤは、「イスラエルの家とユダの家」とに結ばれる「新しい契約」において、信者には神の掟を守る力が与えられることを告げています。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──主の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレ31:33;新改訳第三版)
エゼキエルは、神の掟を守る力は一人ひとりに与えられる聖霊によるのだと預言しています。
あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。(エゼ36:26–27;新改訳第三版)
そして、イエスはイスラエルから出られたメシアとして、最後の過越の食事の席で「新しい契約」を結ばれました(ルカ22:20)*3。過越の食事の席にいた者たちは、みなユダヤ人の信者でした。しかし、異邦人の信者についても、ユダヤ人と「キリスト・イエスにあって、……共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者と」なりました(エペ3:6)。私たちもまた、「新しい契約に仕える者」とされたのです(IIコリ3:6)*4。ヨハネが教えている御霊の働きは、「新しい契約」の成就なんだ!ということに気づいたとき、目の前が一気に明るくなったように感じられました*5
終わりに
最後に……ということで書こうと思ってたことがあったのですが、お恥ずかしいことに忘れましたf^_^;
これ以上うだうだ書き連ねるより、手紙の最後部、5:18–20をお読みください。この部分は、まさにこの手紙のアブストラクトだと言えると思います。
わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。
わたしたちは知っています。私たちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。
わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。(新共同訳)
第一ヨハネの学び会の準備は終わりましたが、続けて第二ヨハネに取りかかっています。
「よし、短いし第一ヨハネほど細かい神学的教えがないからパパッといくか!」と(若干なめて)取りかかったのですが、既に冒頭3節の挨拶文からして余りにも神学的深みがあり、そのインパクトの強さに驚いているところです。第三ヨハネまで進むのが楽しみでなりません。
ヨハネの手紙、やっぱりいいですね。
*1:ちなみに、D・M・スミスの注解書『現代聖書注解 ヨハネの手紙1、2、3』新免貢訳(日本基督教団出版局、1994年)はリベラル的な視点から書かれたものですが、各節の釈義部分には非常に深い洞察に溢れていまして、日本語で出版されているヨハネ書簡注解書の中でもおすすめできるものだと思います。
*2:この箇所における御子に関する告白の内容について、新改訳は「人となって来られたイエス・キリスト」と訳しています。ジョン・ストットは、この部分のより適切な訳は「イエスは人となって来られたキリストです」だと主張しています(『ティンデル聖書注解 ヨハネの手紙』千田俊昭訳[いのちのことば社、2007年]173–75頁)。
*3:ヘブル人への手紙では、イエスは「新しい契約の仲介者」であると言われています(8:6;9:15;12:24)。
*4:エレ31:31–34から分かるように、新しい契約は本来神とイスラエルの民との間に結ばれたものです。しかし、聖書はユダヤ人信者と異邦人信者から成る「新しいひとりの人」である教会もまた、新しい契約と関係があることを明確に教えています(Iコリ11:25;IIコリ3:6;ヘブ8:6–13;9:15;10:15–18;12:24)。キリストは、ユダヤ人と異邦人の「両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させ」られました(エペ2:16)。そのことは、「栽培種の枝」であるイスラエルが所有している「オリーブの木」に「野生種の枝」である異邦人が接ぎ木されたというたとえでも表現されています(ロマ11:17–24)。これらのことから、キリストにある異邦人は「共同相続人」としてイスラエルのものである新しい契約の祝福に与っているのだと結論づけることができるでしょう(ロマ8:17;15:27)。「新しい契約」と教会の関係についてのこのような理解については、下記も参照していただきたいと思います。
- Arnold G. Fruchtenbaum, Israelology: The Missing Link in Systematic Theology, rev. ed. (Tustin, CA: Ariel Ministries, 1993), pp. 586–87, 633–39.
- Bruce A. Ware, “The New Covenants and the People(s) of God,” in Dispensationalism, Israel and the Church: The Search for the Definition, eds. Craig A. Blaising and Darrell L. Bock (Grand Rapids, MI: Zondervan, 1992), pp. 68–97.
- Larry D. Pettegrew, “The New Covenant,” The Master’s Seminary Journal, 10:2 (Fall 1999), pp. 251–70.
*5:Christopher D. BassによるThat You May Know: Assurance of Salvation in 1 John, NAC Studies in Bible and Theology (Nashville, TN: B&H Publishing Group, 2008)は、そのタイトルに表されている通り、まさに「救いの確証」というテーマを扱っています。聖書研究の準備において、随分と参考にさせてもらいました。で、この本ではまさに、救いの確証と新しい契約の関係が論じられています(pp. 98–119)。我が意を得たり!