軌跡と覚書

神学と文学を追いかけて

黙示録20:4は「中間状態」について教えているのか?(Michael Vlach)

引き続き、マイケル・ヴラック(Michael Vlach)氏のブログ記事を拙訳でお送りしています。元記事はこちら↓

mikevlach.blogspot.jp

Michael J. Vlach, "Does Revelation 20:4 Teach an Intermediate State Reign of the Saints in Heaven?," Apr. 4, 2017; accessed May 19, 2018.

※1 本記事は「ディスペンセーション主義について」のカテゴリに分類しておりますが、実際にはこの立場に特有な主張がなされているわけではありません。しかし、ディスペンセーション主義を自認されている方の主張をご紹介するという意味で、このカテゴリにも分類させていただいております。

※2 本文中〔〕は訳者による補足を表しています。

トピック

黙示録20:4は中間状態にある聖徒たちが天において治めていると教えているのか?

by Michael J. Vlach (Tuesday, April 4, 2017).

千年王国説(amillennialism)に立っている人々の中には、黙示録20:4が描いているのは、天において聖徒たちが王として治めているという中間状態*1の様子なのだと信じている者がいる。この見解に立つサム・ストームス(Sam Storms)もまた、黙示録20:4のこういった側面は「明らか」であり(Kingdom Come, 457)、「疑う余地がない」と言っている(458)。「明らか」で「疑う余地がない」というのは強い言い方だ。もしこれが事実なら、証拠は無千年王国説の見解に強く傾いているはずである。今回は、この黙示録20:4〔の解釈〕に関する問題について考えていきたい。

本稿では、黙示録20:4が、中間状態における天からの聖徒たちの支配について言及しているという見解について検証する。結論としては、これは不確定な見解であると主張したい。検証を始めるに当たって、まずは聖句自体を引用しておく必要がある。

また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。(黙20:4)*2

この偉大な聖句は、イエスの再臨(黙19:11以下)、サタンの捕縛(黙20:1–3)といった描写から続いている。そして、イエスの証しのゆえに首をはねられた人々のたましいが生き返り、千年の間王として治める様を描いている。

一部の無千年王国主義者にとって、聖徒たちによる千年間の支配とは、イエスの2つの来臨の間である今、天において起きていることである。よって、黙示録20:4が述べているのは、現在イエスの聖徒たちが王として治めているという、天における中間状態なのだということになる。そして、この描写は現在起きていることなのだから、千年期前再臨主義者(premillennialists)が提唱しているような、将来の地上的王国において成就する内容ではないということになる。

サム・ストームスは著書『Kingdom Come』において、天での中間状態における統治という見解を強く主張している。その主張は、黙示録6:9–11と20:4の類似性に依拠したものである。黙示録6:9–11には次のように書かれている。

子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。

ストームスは黙示録6:9と20:4の著しい類似性を指摘している。ゆえに、これは両聖句が扱っているのが同じ出来事であることを示しているのだという。

  • 「そして、私は見た(And I saw)」という言葉が両方の聖句に見られる。
  • 「殺された/首をはねられた人々のたましい」という言葉が両方の聖句に見られる。
  • 「神のことばのゆえに」という言葉が両方の聖句に見られる。
  • エスの「証しのゆえに」という言葉が両方の聖句に見られる。

以上のような類似性を研究した結果について、ストームスは次のように述べている。「黙示録6:9–11を見てみると、ヨハネが黙示録20:4–6で中間状態について語っているのだということは、明らかであるように思える。」(Storms, Kingdom Come, 457.)他にはG・K・ビール(G. K. Beale)もまた中間状態説に立っており、こう述べている。「〔黙示録20:4と〕6:9との類似性は、この場面で描かれているのは死んだ聖徒たちによる天における統治であり、地上における描写ではないということを強く示している。」(G. K. Beale, Revelation: A Shorter Commentary, 436.)ストームスはこの説についてかなりの確信を抱いており、「疑う余地がない」と見なしている。「ヨハネが〔20:4と6:9において〕描いているのは同じこと、すなわち中間状態における祝福であるということは、疑う余地がない。」(458)以上の引用が示しているように、ある人々は黙示録20:4が天における中間状態を描いているということについて、強い確信を抱いているのである。

中間状態説の検証

中間状態説が正しいかどうかは、以下で論じる3つのポイントを検証することによって判断されると思われる。なお、ここでは3つのポイント全てに言及はするが、特に黙示録20:4と6:9–11の関係を扱う3番目のポイントに焦点を当てていきたい。

第一に、中間状態説では、黙示録19:11以下で言及されているイエスによる将来の統治と、黙示録20:4における聖徒たちによる統治のタイミングを分けて考える必要がある。どのような千年王国論に立つかに関わらず、ほとんどの場合、黙示録19:11以下がイエスの地上への再臨を描写していることは認められている。さらに、黙示録19:15aは、再臨されたイエスが鉄の杖で諸国民を治めることになると言っている。「この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。」しかし、中間状態説によれば、黙示録20:4における聖徒たちによる統治は今の時代に実現している。黙示録19:15ではイエスが再臨された後の統治が書かれているのなら、イエスの聖徒たちが、主が戻ってこられる前の今の時代に統治を行っているというのは奇妙に思える。

第二に、中間状態説では、20:4で「生き返って」と訳されているezesanについて、肉体的復活を含まない形で考える必要がある。ストームスは次のように述べている。「肉体的な命を失った代わりに、彼らは中間状態において、キリストにあって(肉体を離れた魂の状態で)よみがえった。彼らはその状態で、現在の教会時代の間、主とともに治めるのである。」(Storms, 466.)だが、一般的に認められているように、黙示録20:5ではezesanは肉体的復活への言及に使われている。中間状態説が正しいといえるためには、20:4の「生き返って」という言葉は肉体的復活であってはならない。なぜなら、この説によれば、20:4はイエスの再臨と〔聖徒たちの〕肉体的復活の前における、天にいる聖徒たちを描写しているからである。よって、この説が正しいといえるためには、黙示録20:4–5における同じ言葉が、2つの異なる方法で使われている必要がある。

第三に、中間状態説では、黙示録20:4において6:9–11で言及されているのと同じ人々が描かれており、さらに天における類似した状況が描かれていると考える必要がある。ストームスは、千年期前再臨主義者も含めた全ての神学者が、黙示録6:9–11は天における中間状態を描写しているという点で合意していることを指摘している。これは事実である。しかし、中間状態説が正しいといえるためには、黙示録20:4もまた天における場面を描いていると考えなければならない。

最初の2つのポイントについて、私は中間状態説における主張を証明するのは困難だと思うのだが、時間と字数の関係で詳細な議論は展開できなかった。実に多くの神学者が、その〔中間状態説の〕主張を擁護している。しかし私としては、黙示録19:15で述べられているような再臨後のイエスによる諸国民の統治と、黙示録20:4における彼の聖徒たちによる統治を区別して考えるのは難しいと思う。聖書は、メシアの統治と聖徒たちによる統治は同時に起こるのだと教えている(マタ19:28参照)。また、ezesan(「生き返って」)について、同じ文脈の中で異なった形で用いること──つまり、20:4では中間状態における復活への言及として、一方20:5では肉体的復活への言及として捉えることは、非常に難しい。よって、私としては、既に第3のポイントを論じる前の段階で中間状態説は困難を抱えており、これが最良の見解だとは思えないのである。

だが、繰り返しとなるが、本稿の主な目的は黙示録6:9–11と20:4の類似性に関する主張に焦点を当てることである。そして、黙示録20:4が天における中間状態を記述しているということについて、合理的疑いがあることを示したい。

はじめに、20:4で描かれている人々が6:9–11で言及されていた人々と同じであるということについては、私はストームスに同意している。黙示録6:9と20:4aは同じグループ──イエスに命をささげた人々を描いている。このことは、中間状態説を擁護もしくは反論する上では関係がない。

しかし、両方の聖句に同じ人々(殉教者たち)が存在しているのだから、彼らが同じ時期に同じ経験をしているのだという結論に対しては異議を唱えたい。黙示録20:4aと6:9は明らかに同じ殉教者たちのグループを扱っているが、これらの節の類似性だけを考えることはできない。私たちは黙示録20:4bと6:10–11についても比較していく必要がある。それによって、両方の聖句で記述されている状況には大きな違いがあることが分かる。

  • 黙示録6:10–11:聖徒たちは天におり、地に対する正義を求めて叫んでいる。
    黙示録20:4b:聖徒たちは多くの座に就いて治めており、正義を経験している。
  • 黙示録6:10–11:聖徒たちは殉教者たちの数が満ちるまで休む。
    黙示録20:4b:聖徒たちは生き返り、王として治めている。
  • 黙示録6:10–11:扱われている期間は、聖徒たちが休んでいるしばらくの間である。
    黙示録20:4b:扱われている期間は、聖徒たちが王として治める千年の間である。

よって、黙示録6:9と20:4aの間には類似性があるが、重要な違いもあることがわかる。聖徒たちが地に対する正義を求めて天で叫んでいる様子(6:9–11)と、彼らによる統治が実現している様子(20:4)とでは、違いがある。ストームスによる黙示録20:4と6:9の類似点のリストに対するコメントの中で、〔マット・〕ウェイメイヤー(〔Matt 〕Waymeyer)は次のように述べている。「この主張において問題なのは、ストームスが挙げた類似点は両方の幻が同じ人々を扱っていることを証明するものであって、同じ人々による同じ経験を扱ったものだと証明するものではないということである。」(Waymeyer, Amillennialism and the Age to Come, 241.)ウェイメイヤーは正しい。ふたつの聖句における人々と、その人々の経験内容については、それぞれ公平に判断されなければならない。

黙示録20:4と6:9–11がどのような関係にあるかということを理解するための鍵は、20:4aと6:9〔の比較だけ〕で留めないことである。全体像を掴むには、黙示録20:4bと6:10–11についても比較するべきだ。前者のみに着目することは、関係する証拠全体ではなくその一部にのみ着目するという、選択的証拠(selective evidence)の誤りを犯すことになる。ストームスの主張を受けて、ウェイメイヤーは次のように述べている。「もしストームスが、黙示録6:9–11と20:4は中間状態における殉教者たちの同じ経験を記述していると論証するつもりなら、彼は黙示録6:10–11と20:4bの間に明確な類似性があることを示す必要がある。しかし、彼の比較検証において、これらの節は無視されている。」(Waymeyer, 241.)

両方の聖句を調和させる上で、無理のない解釈は以下のようなものだと思う。6:9–11で描かれている天における殉教者たちは、地に対する正義が下されることを待ちわびている。彼らはそれがいつ起こるのかを知りたがったが、他の〔殉教することになっている〕クリスチャンたちが殺されるまで待つようにと告げられた。そして、黙示録20:4に至ると、殉教者たちは自分たちが迫害されたその地を王として治めることで、満たされるようになる。

黙示録6:9–11は待ち望む様子を描いているが、20:4ではその望みが満たされる様が描かれている。よって、6:9–11と20:4とでは扱われている人々は同じだが、状況が異なるといえる。黙示録6:9–11は、20:4で実現することを待ち望む場面を記しているのである。この移行における鍵は、メシアであるイエスの再臨と統治である(黙19:11以下)。これによって、聖徒たちは正義を待ち望む状態から、彼らが迫害を受けた地を統治する状態へと移されたのである。

黙示録20:4に地上は登場するのか?

〔以上で論じた〕点については、「だが、黙示録20:4では地上について言及されていないではないか」という批判があるかもしれない。しかし、黙示録20:4と「地」を関連づける上で、いくつか納得のいく根拠がある。

第一に、既に黙示録5:10において、聖徒たちは「地」を治めることになると言われている。「私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らはを治めるのです。」この人々はイエスの血によって贖われた者たちであり(5:9)、地を治めることになっている。黙示録20:4はこの希望の成就である。

第二に、黙示録6:10–11における殉教者たちの望みは、「地」に対して復讐が為されることであった。このことは、殉教者たちを地と結びつけている。聖徒たちが復讐を望んで叫んだとき、彼らは治めるようにではなく、待つようにと告げられた。また、既に王として治めているのだから地のことは忘れなさい、と言われたのでもない。そうではなく、地に正義がなされるようにという彼ら〔聖徒たち〕の嘆願は、彼らがメシアと共に地を治めることによって満たされるのである(黙19:15;20:4)。さらに、もし20:4における聖徒たちの統治が地に対するものでなければ、地に対する復讐という望みは未解決のままである。よって、もし〔20:4において〕聖徒たちが天にいるままであったら、地上にいる彼らの敵は未だ報いを受けることなしに不正を働いていることになってしまう。黙示録6:10–11において、聖徒たちの希望は地に対する復讐であることを思い出していただきたい。しかし、もし聖徒たちが現在イエスと共に天から治めているという〔ことが20:4の意味〕なら、地に対する復讐という彼らの希望は未解決のままとなってしまうのである。6:10–11の聖徒たちは、その〔20:4の〕時に復讐の成就を見ることはできないことになってしまう。

第三に、黙示録19:11以下では、地上に再臨されたイエスが、地上の諸国民を統治される様が書かれている(19:15)。よって、黙示録20:4の数節手前で地上的支配が言及されているということになる。私は、黙示録20章の内容について、無千年王国主義者はそれが19章のイエスの再臨に続く出来事だと時系列的に考えてはいないということを理解している。しかし、〔黙20:4と〕近い文脈の中で、イエスが地上に再臨し、諸国民を統治することが書かれているのである。個人的には、数節前でイエスは諸国民を治めると言われているのに黙示録20:4が地上と無関係だということは、理に適った主張だとは思えない。

第四に、黙示録20:8–9において、千年間の統治が終わった後に「地の四方にいる諸国の民」が「愛された都」(すなわちエルサレム)に向かっていくことが明かされている。再び、黙示録20章の文脈において「地」が現れるのである。

すなわち、黙示録20:4に「地」という単語が見られないからといって、20:4の統治が地上的なものではないということは、納得のいく主張ではないのである。

2つの立場の要約

2つの見解における黙示録6:9–11と20:4の理解について、これまで論じてきたことを以下に要約して示す。

千年王国主義による中間状態説

  • 対象:殉教者たち(両方の聖句において)
  • 場所:天(両方の聖句において)
  • 時期:イエスの2つの来臨の間
  • 経験内容:天における休息と統治

千年期前再臨説

  • 対象:殉教者たち(両方の聖句において)
  • 場所:6:9–11では天;20:4では地上
  • 時期:6:9–11ではイエスの再臨の直線の患難期;20:4ではイエスの再臨の後
  • 経験内容:6:9–11では、天において地に対する正義を待って休んでいる;20:4では、イエスの再臨の後、地を治めている。

結論

私が今回このようなポストをした理由のひとつは、ある人々の間で、黙示録20:4に関する中間状態説の信頼性が過剰評価されているように思えたからである。私は、黙示録20:4の中間状態説が「明らか」で「疑う余地がない」ほどに証明されたとは思っていない。個人的には、黙示録20:4は将来における聖徒たちによる地の統治について述べているのだと考えた方が、より適切だと思うのである。

*1:脚注:中間状態とは神学用語で「人間の死と復活の間の状態」を意味する(ミラード・J・エリクソンキリスト教神学』第4巻、宇田進監修、森谷正志訳[いのちのことば社、2006年]378頁)。

*2:脚注:以降、聖書引用は新改訳2017による。