本ブログでは終末論についても度々取り上げているのでお察しいただけるかと思うが、聖書の中でも「ヨハネの黙示録」は前から関心を寄せている書のひとつである。持っている文献の中でも、黙示録に関係している文献の占める割合はかなり多い。
今回は最近読んだ以下の黙示録関連本(こう書くとすごい胡散臭そうだな…)が結構面白かったので、ご紹介させていただきたい。
C.Marvin Pate. Interpreting Revelation and Other Apocalyptic Literature: An Exegetical Handbook. Handbooks for New Testament Exegesis. Grand Rapids: Kregel, 2016.
はじめに
米国のキリスト教系出版社であるKregel社は、「Handbooks for Old Testament Exegesis(旧約聖書釈義ハンドブック)」と「Handbooks for New Testament Exegesis(新約聖書釈義ハンドブック)」というシリーズを展開中である。その名の通り、聖書釈義の教科書となることを目指すシリーズである。旧新約各書の歴史的背景や文学類型、神学的テーマなどを解説しながら、釈義の方法論を示し、実際にいくつかの聖句について釈義と説教準備の実践例を提示してくれている。
かなり評判の良いシリーズで前から気になっていたのだが、物理的にこれ以上蔵書を増やすのが難しく、泣く泣く見送っていた。
だけど先月、聖書研究ソフトAccordance用のモジュールとして販売が開始されたので、早速新約聖書編だけ購入。
その中で、まずは『Interpreting Revelation and Other Apocalyptic Literature(黙示録およびその他の黙示文学の解釈)』(2016年)を読んでみた。久々にわくわくしながら、面白く読んだ神学書だった。
著者のC. Marvin Pate*1は、終末論(聖書預言)やパウロ神学に関する著作で有名である。彼は1998年に、Zondervan社Counterpointsシリーズの1冊『Four Views on the Book of Revelation(黙示録に関する4つの見解)』の編者を務めている。ここでは過去主義の立場からKenneth L. Gentry Jr.が、理想主義からはSam Hamstra Jr.が、未来主義/ディスペンセーション主義からはRobert L. Thomasがそれぞれの見解を述べている。Pate自身は編者として序論および結論を執筆するとともに、漸進的ディスペンセーション主義の立場としても見解を述べている。彼が示したのは、未来主義的な見方も肯定しつつ、「既に/未だ」(already/not yet)という視点も備えた、各見解の中間的な立場であった。『Interpreting...』におけるPateの立ち位置も、彼が1998年に示した見解から基本的には変わっていない。
さて、黙示録を解釈する際の枠組みとして広く認識されているのは、先に触れた過去主義、理想主義、未来主義に歴史主義を加えた4つの見解である。
- 歴史主義:「黙示録を1世紀末から時間の終焉に至るまでの、教会の歴史の全過程を象徴的に提示したものであると主張する」立場*2。
- 過去主義:黙示録の出来事の多くは、紀元1〜2世紀の迫害やエルサレム陥落によって成就したと見なす立場。
- 理想主義:黙示録は「いかなる時代においても続行されている善と悪との永遠の闘争を示すものであり、ただ本書はそれを特に教会の時代におけるそれに限定させている」とする立場*3。象徴主義ともいわれる*4。
- 未来主義:黙示録の「4:1から本書の最後までにでてくる幻のすべてが、キリストの再臨直前とその後の帰還に成就すると信じている」立場*5。
ちなみにぼく自身は、黙示録を読む枠組みとしては未来主義が適切だと思っている。黙示録の内容を現代に適用していく上では、過去主義や理想主義の立場からも多くのことを学ばせていただいている。しかし釈義においては、黙示録における種々の幻の内容(特に6章以降)は将来の患難期に関するものだと考えている一人である。(ただし、いつも言っていることだが、今の見解は今後の聖書研究で変わっていくこともあり得る、とだけ付け加えておこう。)以下はそういう者の感想として捉えていただきたい。
最近人気なのは、過去主義、理想主義、未来主義の各要素を取り入れた中間的な立場である。……というより、聖書の他の書であらわされている終末論に「既に/未だ」の視点を見出している者にとっては、その視点を黙示録の理解にも当然取り入れているということになる。最近だと、より理想主義に近い無千年期説の立場からはG. K. Bealeの注解書*6が、より未来主義に近い千年期前再臨説の立場からは故Grant Osborneの注解書*7が代表として挙げられるだろう。最近の日本語文献では、岡山英雄の注解書*8がそのような立場を取り入れている。
既に触れたように、Pateもまた中間的な立場を取っている。簡潔に言えば、彼は理想主義の考え方を(一部過去主義的な見解も)取り入れながら、千年期前再臨説に立った未来主義の読み方を提示している。彼は漸進的ディスペンセーション主義者を自認しているが、これは聖書的契約(あるいは旧約聖書における約束)が漸進的に成就していくことを強調している立場である。つまり、約束は今成就しつつあり、将来完全に成就するという「既に/未だ」の視点を持っている。よって、必然的に黙示録の理解にも「既に/未だ」を取り入れることになる。この点では、彼の立場はOsborneや岡山に近いといえるだろう。
よって、ぼくのように未来主義の視点を強調する読者にとっては、Pateの主張には納得がいかなかったり、ときにはフラストレーションを感じることもあるだろうと思う。ぼく自身、彼が黙示録6章以降の内容について「既に」の側面が見出されると主張しているところについては、やや強引さを感じたところである。(これは、1998年の彼の論文においても同様であった。)しかし、黙示文学という文学類型や、聖書における黙示文学の歴史的背景について丁寧な議論がなされているので大変参考になったし、面白く読むことができた。
面白いと思ったポイント その1
Pateは、黙示文学というものが旧約聖書の預言を土台とした文学形式であることを強調している。特に黙示文学の原形としてイザヤ書やダニエル書が提示されている。これによって、旧約預言書と黙示録の連続性が論理的に確保されている。黙示録を読む上で、第二神殿期の黙示文学的な特徴に注目することは排除されていない。しかし、それよりもさらに強調されるのは、黙示録の内容と旧約聖書との対応である。中でもダニエル書と黙示録の対応関係は著しいとされ、本書ではこの2書に関する考察が一番多い。
David Auneによる3巻ものの注解書*9では、第二神殿期ユダヤ教やキリスト教の黙示文学のみならず、ギリシャ・ローマ世界の神話等の文献も広く参照されていた。だが、Bealeの注解書では黙示録と旧約の対応により重点が置かれていた*10。前者は資料的にかなり貴重であるものの、やはり黙示録を読む上では後者の行き方の方が妥当ではないかと感じていた。Pateの議論を読みながら、その感覚をさらに深めることができたところである。
面白いと思ったポイント その2
黙示録6章以降における「既に/未だ」の視点について、1998年の『Four Views...』の頃では、「既に」の内容は紀元70年のエルサレム陥落において部分的に成就したとされていた。本書では、その主張が改訂されている。Pateが黙示録6章以降の内容について本書で主張しているのは、紀元70年に起きたローマ帝国によるエルサレム陥落が、将来に起きるであろうローマ帝国の陥落に再適用(reapplication)されているということである。これはPate自身謳っているように、かなりユニークな主張だと思う。
この主張の根拠は複雑である。6章以降の「封印の裁き」により生じている事象は、オリーブ山の説教(マタイ24–25章;マルコ13章;ルカ21章)の序盤と対応している。オリーブ山の説教は、エルサレムに降りかかる裁きと関連している。よって、封印の裁きとオリーブ山の説教が対応しているならば、封印の裁きの内容もまた、エルサレムへの裁きと関連しているだろう*11。
Pateの観察によれば、実際にエルサレム陥落で起きたような事象(反キリスト的な帝国の代表者の勝利、飢饉、死など)が封印の裁きにより起こされている。だが封印の裁きの場合には、これがエルサレム陥落の成就後に書かれているのだから、直接的な聖都への裁きではなく、別の対象への裁きである。黙示録の場合に裁きの対象となっているのは「獣」の王国である。バビロンとも表現されるこの王国は、ローマのことではないか。だから封印の裁きについて言えば、エルサレムへの裁きで起きたことが、帝国が裁かれるときにも起こる──ヨハネはそういう視点を持っていたのではないかとPateはいうのである。
彼がもうひとつ持ち出している歴史的背景は、Nero Redivivusという伝説である。これは、肯定ネロが実は生きていて、あるいはネロが蘇って、パルティア(古代イランの王朝)を率いてローマに攻め込んでくるのではないかという俗説のことである。ちなみに、黙示録における反キリスト的存在とネロ伝説の関わりについては、古くから指摘されていることである。
Pateによれば、封印の裁きの最初に出て来る白い馬はパルティア人の乗る白い馬、そしてそれに乗る人物とは蘇ったネロを指しているのではないかという。また、13章における獣の復活も、それを指しているのではないかというのである。彼は獣の数字である「666」をネロの名前と捉えている*12。これと合わせると、黙示録ではやはりネロが反キリストを象徴する存在(figure)として機能しているということになる。つまり、ヨハネは将来現れる反キリストを表現するために、ネロ伝説の要素を用いたということである。
なお、Pateはこれによって黙示録を神話として排除しようとしているのではない。むしろ、その内容がローマ帝国を超えた究極的な反キリストを予見するものであると解釈することで、1998年の見解よりも未来主義的解釈に近づいている。つまり彼の中では、黙示録6章以降について従前よりも「未だ」の側面が強められているのである。
だが、これは理論というほど確立されたものではなく、あくまで可能性としてしか捉えられない。実際、この見解は問題だらけだと思う。ヨハネがどの程度ネロ伝説を知っていたか、また意識していたかということは、現在の文献研究からは結論づけることができないだろう。
「白い馬」がパルティア人の馬を指しているという点についても、その後赤い馬や黒い馬、青ざめている馬が出て来ることからすると、釈義上重要なのはどの民族の馬かということよりも、馬の色自体がどういう意味合いを持っていたかということになるだろう。
また、Pate説ではヨハネが当時の俗説に基づいて象徴的表現を用いたことになる。しかし、黙示録のテキストはその内容についてヨハネが「見た」幻であると主張しているのであり、この主張はそのまま捉えられる必要があるのではないか。──その場合も、ヨハネは自分が見た幻を適切に表現するために当時の俗説を用いたのだといえるかもしれない。しかし、象徴的表現がどの程度実際に見た幻に基づいたものであるかは、容易に判断できる問題ではない。あるいは、神は当時の俗説を想起させる形でご自分のご計画を伝えようとされたといえるかもしれない。しかし、ここでまた問題となるのは、ネロ伝説が当時の小アジアにおいてどの程度一般的であったかということである。
だが、Pateの新説がやや極端であったとしても、エルサレム陥落の描写が獣の王国の裁きに適用されているという視点は確かに興味深い。そう捉えるならば、やはり黙示録6章から神の「御怒り」が啓示されていることになる。また、王国への裁きだからこそ、白い馬に乗る人物はキリストではなく反キリストであると捉えることができるだろう。
この点については、黙示録自体の流れや、旧約預言との対応について考える中でさらに精査されていく必要があるものと思われる。
微妙だったポイント
しかし、先の「面白かったポイント その2」は、そのまま本書の短所に繋がっている。
Pateは、聖書の黙示文学や第二神殿期ユダヤ教の黙示文学に一貫して見られる図式が「イスラエルの物語」の再現であるとする。大雑把にいえば、イスラエルは神との契約を破ったために裁かれるが回復されるという、レビ記26章や申命記4章および同28–30章で顕著に見られる流れである。これはバビロン捕囚期の預言書(イザヤ書など)にも、捕囚期の預言書(ダニエル書など)にも、また捕囚後の預言書(ゼカリヤ書など)にも見られる特徴である。そして、この流れは新約聖書ではオリーブ山の説教や、書簡の一部、そして黙示録にも見られる。
本書の第2章では黙示文学における「イスラエルの物語」の一貫性が示されており、大変勉強になった。だが、その中で先ほど触れたユニークな新説がちりばめられてくるため、どうも論理展開がとっちらかっている印象を受ける。こういう内容展開の仕方だと、本書を読んで「黙示録をどう解釈すべきか」が見える人というのは、以前からよほど黙示録を学術的に研究している人に限られてしまうのではないか。正直言って、本書が聖書の黙示文学を釈義して説教していくためのガイドブックになり得るかどうか、疑問である。(いや、まぁぼく自身に読解力が無いせいかもしれないが……)
特に残念だったのは、実際に釈義と説教準備の一例が示されている第7章「テキストから説教へ」だ。ここでサンプルとして選ばれているのは預言書ではなく、なんとローマ11:25–27と第二テサロニケ2:6–7である。本書の主題からすれば、黙示録2–3章と4–22章からそれぞれ1箇所ずつとか、あるいは旧約預言と黙示録からそれぞれ1箇所ずつ選ぶべきだろう。確かにパウロ書簡の当該箇所は、黙示文学の内容──というより、旧約預言書の内容が色濃く反映されている。しかし、象徴的表現の有無という観点からすれば、先の2つの書は、旧約預言書や黙示録とは大きく異なっているのである。
まとめ
本書は黙示文学の歴史的背景や特徴を学ぶ上で、大変参考になった。また、興味深い主張がちりばめられている面白い本であるのは間違いない。しかし、教科書というには論がとっちらかっている印象が強い。また、肝心の黙示文学自体の釈義にはあまり紙数が割かれていないため、本書が黙示文学の釈義および説教の教科書として機能するかどうかは甚だ疑問である。
ただ、面白くてワクワクしながら読んだのは確かだ。各議論は体系化されているとは言い難いが、各論的には丁寧である。黙示録を真剣に学ぼうという人は、通っておいて損はない本だと思う。
Pate先生には、ぜひとも本書や既往の著作の議論を整理していただきたいなぁ。そのためにも、ぜひとも黙示録の注解書を執筆していただきたいところである。
おまけ:黙示録に関するおすすめ文献紹介
黙示録を読む上での参考書ならば、古い本ではあるけれども、やっぱりメリル・C・テニイの黙示録注解が読みやすくて参考になる。正直これでも十分だと思うが、絶版なのが残念である。(ぼくは少し前、ことば社のリパブックスで出ていたのを入手した。)
千年期前再臨説&患難期前携挙説の立場から聖書預言の捉え方を分かりやすく教えてくれているものとしては、明石清正氏の『聖書預言の旅』(リバイバル新聞社、2002年)の右に出るものはないと思う。
英語文献でよければ、Arnold Fruchtenbaumの『メシアの足音』*13、またPaul Benwareの『終末預言を理解する』*14が分かりやすくておすすめである。
無千年期説の立場からになるが、NIGTCシリーズのBealeの注解書は、黙示録と旧約の対応をかなり詳細に論じているものとして外せない。
なお、Bealeの注解書は短いバージョンも出ている。
また、黙示録における旧約言及については、以下の注解書における黙示録の章*15(BealeとSean McDonoughの共著)も参照しやすく、使いやすい。
千年期前再臨説・患難期後携挙説の立場からは、BECNTシリーズのOsborneの注解書と岡山英雄氏の注解書を薦めたい。特に岡山氏のものは、この立場から旧約との関係を論じている日本語文献として非常に重要だと認識している。
あとは少し古くなるが、故George Laddの注解書*16も有名である。
千年期前再臨説・患難期前携挙説の立場からは、既に紹介したFruchtenbaumの著作において、旧約預言との対応がかなり詳しく扱われている。
この立場でギリシャ語からの釈義的に詳細な注解書というと、故Robert Thomasの注解書*17くらいしかない。残念ではあるが、これはぼくが黙示録に取り組んだ後で必ず目を通すようにしている注解書のひとつだ。最近の黙示録研究だとスルーされてしまうか、単に批判の対象にされてしまうことが多い注解書だが、色褪せているとは思えない。
保守的福音主義の立場からのシリーズで、釈義的に細かいことで評判がいいLogosソフトウェアのEvangelical Exegetical Commentaryシリーズでは、Baptist Bible Seminary組織神学教授のMichael Stallard(Ph.D., ダラス神学校)が担当予定なようだ。非常に楽しみである。
より簡潔な注解書としては、'60年代に出た故John Walvoordの注解書*18が代表的である。これは2011年に改訂出版されている*19。
また、南部バプテストの代表的な牧師・神学者らが執筆したNACシリーズの一冊である、Paige Pattersonの注解書*20もわかりやすくて良い。ぼくが通読時に疑問が出てきたり、確認したくなったりするとき、一番最初に開くのはこの注解書である。
日本語では、中川健一氏による注解*21が読みやすくておすすめである。
*1:元ムーディ聖書学院教授、現在ワシタバプテスト大学教授。
*2:メリル・C・テニイ『新約聖書註解 ヨハネの黙示録』有賀寿訳(聖書図書刊行会、1972年)178頁。
*3:前掲書、185頁。
*4:岡山英雄『ヨハネの黙示録注解──恵みがすべてに』(いのちのことば社、2014年)24頁。
*5:前掲書、181頁。
*6:G. K. Beale, The Book of Revelation, New International Greek Testament Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 1999); G. K. Beale and David H. Campbell, Revelation: A Shorter Commentary (Grand Rapids: Eerdmans, 2015).
*7:Grant R. Osborne, Revelation, Baker Exegetical Commentary on the New Testament (Grand Rapids: Baker, 2002).
*8:『ヨハネの黙示録注解』;『小羊の王国』改訂版(いのちのことば社、2016年)。
*9:David E. Aune, Revelation, 3 vols., Word Biblical Commentary (Dallas, TX: Word, 1997–1998
*10:Beale, The Book of Revelation.
*11:『Four Views』の頃のPateは、ここから、封印の裁きにおける「既に」の側面をエルサレム陥落と結びつけていた。
*12:「666」の解釈を巡る議論については、以下を参照いただきたい。Aune, Revelation, 2:771–73; Beale, The Book of Revelation, 720–27; Osborne, Revelation, 519–21.
*13:Arnold G. Fruchtenbaum, The Footsteps of the Messiah: A Study of the Sequence of Prophetic Events, rev. ed. (San Antonio, TX: Ariel Ministries, 2003).
*14:Paul N. Benware, Understanding End Times Prophecy: A Comprehensive Approach, rev. ed. (Chicago: Moody, 2006).
*15:G. K. Beale and Sean M. McDonough, "Revelation," in Commentary on the New Testament Use of the Old Testament, eds. G. K. Beale and D. A. Carson (Grand Rapids: Baker, 2007), 1081–161.
*16:George Eldon Ladd, A Commentary on the Revelation of John (Grand Rapids: Eerdmans, 1972).
*17:Robert L. Thomas, Revelation: An Exegetical Commentary, 2 vols. (Chicago: Moody, 1992–1995).
*18:John F. Walvoord, The Revelation of Jesus Christ (Chicago: Moody, 1966).
*19:Walvoord, Revelation, rev. ed., eds. Philip E. Rawley and Mark Hitchcock (Chicago: Moody, 2011).
*20:Paige Patterson, Revelation, New American Commentary (Nashville, TN: B&H, 2012).