今年の1月、マーティン・スコセッシ監督による映画化作品の公開もあり、遠藤周作の『沈黙』が再び脚光を浴びました。私たちのようないわゆる「福音派」に属するクリスチャンの間でも、SNSで、ブログで、あるいは説教の中で、『沈黙』に対する様々なレスポンスが提示されてきました。
その時もそうだったのですが、福音派のクリスチャンの間で遠藤周作が話題に上るとき、ほとんどの議論は「遠藤的キリスト教観の是非」や「日本の風土と伝道」といった話題に帰結してしまいます。福音派の中で遠藤が論じられるときに常に見過ごされているのは、彼がまさに人生をかけて取り組んできた、「キリスト教と文学」というテーマなのです。
福音主義者であり、千年期前再臨主義者であるMichael Vlachは、教会と神の御国(the kingdom of God)の関係について論じる中で、「クリスチャンは神の栄光のために、音楽、芸術、建築、農業、政治、教育、スポーツといった文化の全側面に参加することができる」と述べています*1。しかし、具体的に私たちは、芸術というものとどのような関わりを持ち、またそれをどのように認識し、論じ、展開していくべきなのでしょうか。
不勉強な私の知っているところだと、キリスト教芸術論はリベラル的な神学的立場からは大変多くの、優れた論文や評論が出されているのですが、福音主義神学の立場からは目立った評論がないように思われます。牧師や研究者のブログを探してみても、そう多くは見受けられません。たとえば、音楽について「礼拝音楽」という文脈から論じているものを見つけることはできましたが、それ以外の論じ方は特に見当たりません。
日本福音主義神学会の学会誌『福音主義神学』のバックナンバーを見てみますと、文学が扱われているのは、北村透谷と国木田独歩を取り上げている清水氾「福音と文化と日本文学」『福音主義神学』第10号(1979年)191–210頁くらいなものです。この清水の論文にしても、主題は日本の汎神的風土と福音の戦い──著者の言葉を借りれば「福音と文化のたたかい」であって、論文誌の性質上仕方がないことではありますが、純粋な「キリスト教文学論」ではありません。
私が今なお遠藤に惹かれる点のひとつは、彼が才能ある作家として、キリスト教と文学というテーマに生涯を捧げたそのストイックさです。彼は20代で(ある説によれば、10代の終わりに)見出したそのテーマを捨てることなく、死ぬその直前まで持ち続けていたのです。
そして、福音派に属する私たちが文学について考えるとき、三浦綾子を忘れてはならないでしょう。片山晴夫は三浦文学に見られる姿勢について、次のようにまとめています。
周知のように、三浦綾子は、文壇デビュー作となった『氷点』で、原罪を主題に据えて人間存在を問い、愛とエゴイズムを追求した。その真摯な姿勢は、夫の光世氏の献身的な支えもあり、一貫して変わるところがなかった。「人間はいかに生きるべきか」を文学において真っ向からもとめていったのである。*2
遠藤が(率直に言えば、神学的には異端と呼ぶこともできるほどの)カトリシズムの視点からキリスト教と日本、神と人間の問題を文学として展開していったのとは対照的に、三浦は福音主義の視点から同様な問題を展開していきました*3。片山が述べているように、「両者ともに、文学者としての個性と表現方法は聖書の世界に根ざしている」ということは、「日本の文学史上において稀有な例」だと言うことができるでしょう。
私たち福音派のクリスチャンは、兄弟姉妹たちが文学(あるいは、他の芸術分野)を通して信仰を表現していることに敬意を表しています。私はそれ以上に、福音的な信仰を持って文学を展開し、あるいは文学を論じる方々が起こされていくことを待ち望んでいます。遠藤や三浦の系列に連なる文学者が起こされ、福音派の視点から、クリスチャンが文学をどのように展開していくことができるのかを実際に示すことができる方々が、あるいはその視点から文学を論じていくことができる方々が起こされるのを待ち望んでいます。
大嶋重徳は、彼が活動している若者への伝道の場において、「相対化された価値観の中で育った現代の若者世代は、逆に絶対的な確信に対して非常に強い反応を示す」と述べています*4。このような状況において、福音派のクリスチャンが福音主義者として文学に限らず芸術を体現していくことには、大きな意義が伴っていると思います。そういった理由もあって、Vlachの言うように私たちが「文化の全側面に参加することができる」のならば、それを芸術の領域で、遠藤や三浦が成し遂げたレベルで体現していくことができる方々の出現が待ちきれないのです。